愚管抄_頼茂謀殺と忠綱服罪
愚管抄_頼茂謀殺と忠綱服罪
さて大納言公経は、其冬十月十三日、終右大将になしたぶべしとて、「よろこび申の出立せよ」と仰られにけり。御熊野詣の後、十一月十三日の除目に、終に右大将になりて、其十九日拝賀めでたくして、よの人にほめられけり。
この年の七月十三日、俄に頼政がむまごの頼茂大内に候しを、謀反の心をこして我将軍にならんと思たりと云ことあらはれて、住京の武士ども申て、院へ召けれどまいらざりければ、大内裏を押まはしてうちけるほどに、内裏に火さして大内やけにけり。左衛門尉盛時頚を取て参りにけり。伊予の武士河野と云をかたらいけるが、かうヽヽと申たりけると聞へき。
又院は八月のころをい、御悩はづらいをはしましヽに、
「よくヽヽしづかに物を案ずるに、此忠綱と云男を、これら(な)どに殿上人内蔵頭までなしたるひがことこそ、いかに案ずるも取どころもなきひがことなりけれと、さとり思ふ也」とて、
やがて解官停任して、御領国さながらめしてすてられにけり。すこしも心ある人々は殊勝々々の事かなとをもへりければにや、其悩無為無事に御平愈ありけり。此関東の御使の間にも、やうヽヽのひがこと奇謀ども聞へき。
故後京極殿の子左府のをとヽは、松殿のむすめ北政所の腹なり。それを院の子にせんとて、めしとりて忠綱にやしなはせらるヽ有。それを、おとなしくもあり、将軍にくだし申さんなんどかまへて、そら事のみ京いなかと申けるも聞へけり。
又頼茂とことにかたらいて、あやしき事にも人も思けるに、頼茂が後見の法師からめられて、やうヽヽの事申なんど聞へけるは、披露もなくて関東へくだしつかはしてけり。万の事とりあつめて忠綱がうせぬること、不か思ぎの君の御運、御案のめでたさと、心ある人はこれらのみめでたくぞ思たりける。猶申ゆるさんとする卿の二位をぞ人はあざみける。