愚管抄_頼経東下
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愚管抄_頼経東下
かヽりけるほどに、尼二位使を参らする。行光とて年ごろ政所の事さたせさせていみじき者とつかいけり。成功まいらせて信濃の守になりたる者也。二品の熊野詣でも、奉行してのぼりたりける物をまいらせて、
「院の宮この中にさも候ぬべからんを、御下向候て、それを将軍になしまいらせて持まいらせられ候へ。将軍があとの武士、いまはありつきて数百候が、主人をうしない候て、一定やうヽヽの心も出き候ぬべし。さてこそのどまり候はめ」と申たりけり。
この事は、熊野詣のれうにのぼりたりけるに、実朝がありし時、子もまうけぬに、さやあるべきなど、卿二位ものがたりしたりと聞へし名残にや、かヽる事を申たりける。信清のをとヾのむすめに西の御方とて、院に候をば卿二位子にしたるが腹に、院の宮うみまいらせたるを、すぐる御前と名付て、卿二位がやしないまいらせたる、はじめは三井寺へ法師になしまいらせんとてありける、猶御元服有て親王にてをはしますを、もてあつかいて位の心も深く、さらずは将軍にまれなど思にや。人のにくくてかく推量どもをするにこそ。いかでかまことの心あらん人さは思ふべき。位あらそいばかりは昔よりきこゆる事なれど、今はその心有べくもなし、院の御気色をみながらはいかに。さて此宮所望のことを上皇きこしめして、「いかに将来にこの日本国二に分る事をばしをかんぞ。こはいかに」と有まじきことにをぼしめして、「ゑあらじ」とをほせられにけり。其御返事に、「次々のただの人は、関白摂政政の子なりとも申さむにしたがふべし」など云たヾの御詞の有ける。これにとりつきて、又もとより義村が思よりて、「此上は何も候まじ。左大臣殿の御子の三位の少将殿を、のぼりてむかへまいらせ候なん」と云けり。この心にてかさねて申けるやうは、
「左府の子息ゆかりも候。頼朝が妹のむまごうみ申たり。宮かなうまじく候はヾ、それをくだしてやしないたて候て、将軍にて君の御まもりにて候べし」と申てけり。
其後やうヽヽの儀ども有て、先にも御使にくだりたりきとて、忠綱を又御使にくだしつかはされたりけり。
されども、「せんはたヾもと申しヽ左府の若君、それはあまた候なれば、いづれにても」と申つめければ、
「さらば誠によかりなん」とて、二歳なる若公、祖父公経の大納言がもとにやしなひけるは、正月寅月の寅の歳寅時むまれて、誠にもつねのをさなき人にも似ぬ子の、占にも宿曜にもめでたく叶ひたりとて、それを、終に六月廿五日に、武士どもむかへにのぼりて、くだしつかはされにけり。京を出る時よりくだりつくまで、いささかもいささかもなくこゑなくてやまれにけりとて、不可思議のことかなと云けり。