愚管抄_頼朝の死と政変
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愚管抄_頼朝の死と政変
能保卿は中納言別当などに成て、終に病をもくて出家して、よくなりて内などへ参しかども、この事どもあきれてもありけん。九条殿の御子後京極の摂政、かの頼朝がめいの能保卿の嫡女なりしにあはせ申て、執聟の儀いみじくしてありし也。終に同八年十月十三日によしやす入道はうせにける程に、
この年の七月十四日に、京へまいらすべしと聞えし頼朝がむすめ久くわづらいてうせにけり。京より実全法印と云験者くだしたりしも、全くしるしなし。頼朝それまでもゆヽしく心きヽて、よろしく成たりと披露してのぼせけるが、いまだ京へのぼりつかぬ先に、うせぬるよし聞へて後、京へいれりければ、祈ころしてかへりたるにてをかしかりけり。
能保が子高能と申し、わかくて公卿に成て参議兵衛督なりし、さはぎくだりなんどしてありし程に、頼朝この後京の事ども聞て、猶次のむすめをぐしてのぼらんずと聞へて、建久九年はすぐる程に、九月十七日高能卿うせにき。
かヽるほどに人思ひよらぬほどの事にて、あさましき事出きぬ。同十年正月に関東将軍所労不快とかやほのかに云し程に、やがて正月十一日に出家して、同十三日にうせにけりと、十五六日よりきこへたちにき。夢かうつヽかと人思たりき。「今年必しづかにのぼりて世の事さたせんと思ひたりけり。万の事存の外に候」などぞ、九条殿へは申つかはしける。
この後いつしか正月廿日ぢもくおこないて、通親は右大将に成にき。故摂政をば後京極殿と申にや、その内大臣なりしをこして、頼実大相国入道をば右大臣になしてき。このよりざねは右大将を辞せさせて、その所になりにき。この除目に頼ともが家つぎたる嫡子の頼家をば、左中将になしてき。
其比不か思議の風聞ありき。能保入道、高能卿などが跡のためにむげにあしかりければ、その郎等どもに基清・政経・義成など云三人の左衛門尉ありけり。頼家が世に成て、梶原が太郎左衛門尉にのぼりたりけるに、この源大将が事などをいかに云たりけるにか、それを又、「かくこれらが申候なり」と告たりけるほどに、ひしと院の御所に参り篭て、「只今まかり出てはころされ候なんず」とて、なのめならぬ事出きて、頼家がり又広元は方人にてありけるして、やうヽヽに云て、この三人を三右衛門とぞ人は申し、これらを院の御前わたして、三人の武士たまはりて流罪してけり。さて頼朝が拝賀のともしたりし公経・保家をひこめられにけり。能保ことにいとをしくして左馬頭になしたりしたかやすと云し者など流(さ)れにけり。二月十四日の事にやとぞ聞へし。又文学上人播磨玉はりて思ふまヽに高雄寺建立して、東寺いみじくつくりてありしも、使庁検非違使にてまもらせられなどする事にてありけり。三左衛門も通親公うせて後は、皆めし返されてめでたくて候き。