愚管抄_頼朝の旗揚げ
from 愚管抄
愚管抄_頼朝の旗揚げ
さてかう程に世の中の又なりゆく事は、三条宮寺に七八日おはしましける間、諸国七道へ宮の宣とて武士を催さるヽ文どもを、書ちらかされたりけるを、もてつぎたりけるに、伊豆国に義朝が子頼朝兵衛佐とてありしは、世の事をふかく思てありけり。
平治の乱に十三にて兵衛佐とてありけるを、その乱は十二月なり、正月に永暦と改元ありける二月九日、頼盛が郎等に右兵衛尉平宗清と云者ありけるが、もとめ出してまいらせたりける。この頼盛が母と云は修理権大夫宗兼が女なり。いひしらぬ程の女房にてありけるが、夫の忠盛をももたへたる者なりけるが、保元の乱にも、頼盛が母が新院の一宮をやしなひまいらせければ、新院の御方へまいるべき者にて有けるを、「この事は一定新院の御方はまけなんず。勝べきやうもなき次第なり」とて、「ひしと兄の清盛につきてあれ」とおしへて有ける。かやうの者にて、この頼朝はあさましくおさなくて、いとおしき気したる者にてありけるを、「あれが頚をばいかヾは切んずる。我にゆるさせ給へ」となくヽヽこひうけて、伊豆には流刑に行ひてけるなり。物の始終は有興不思議なり。其時もかヽる又打かへして世のぬしとなるべき者なりければにや、頼盛をもふかく(た)のみたる気色にて有けるなりけり。
この頼朝、この宮の宣旨と云物をもて来りけるを見て、「さればよ、この世の事はさ思しものを」とて心おこりにけり。又光能卿院の御気色をみて、文覚とてあまりに高雄の事すヽめすごして伊豆に流されたる上人ありき。それして云やりたる旨も有けるとかや。但これはひが事なり。文覚・上覚・千覚とてぐしてあるひじり流されたりける中、四年同じ伊豆国にて朝夕に頼朝に馴たりける、その文覚、さかしき事どもを、仰もなけれども、上下の御の内をさぐりつヽ、いヽいたりけるなり。
さて治承四年より事をおこしてうち出けるには、梶原平三景時、土肥次郎実平、舅の伊豆の北条四郎時政、これらをぐして東国をうち従へんとしける程に、平家世を知て久くなりければ、東国にも郎等多かりける中に、畠山荘司、小山田別当と云者兄弟にてありけり。これらはその時京にありければ、それらが子どもの荘司次郎など云者どもの押寄て戦て、筥根の山に逐こめてけり。頼朝よろひぬぐ程になりにければ、実平ふるき者にて、「大将軍のよろひぬがせ給ふは、やうある事ぞかし」とて、松葉をきりて冑の下にしかせて、甲を取て上におきなんどして、いみじき事どもふるまひけるとかや。かくてこれらぐして船に乗て、上総の介の八郎広経が許へ行て勢つきにける後は、又東国の者皆従ひにけり。三浦党は頼朝がりきける道にて畠山とは戦ひたりけり。それより一所にあつまりにけり。