愚管抄_頼朝の上京
from 愚管抄
愚管抄_頼朝の上京
さてすぐるほどに、文治は六年と云四月十一日に、改元にて建久に成にける。元年十一月七日頼朝の卿は京へのぼりにけり。よの人をそにたちてまち思けり。六波羅平相国が跡に、二町をこめて造作しまうけて京へいりける。きのふとて有ける、雨ふりて勢田の辺にとヾまりて、思さまに雨やみて、七日いりけるやうは、三騎+ ならべて武士うたせて、我より先にたしかに七百余騎ありけり。後二三百余騎はうちこみてありけり。こむあをにのうち水干に夏毛のむかばきまことにとを白くて、黒き馬にぞのりたりける。そ(の)後院・内へまいりなんどして、院には左右なきものになりにけり。やがて右大将になされにけり。十一月九日先任権大納言。参議・中納言をもへず直に大納言に任ずる也。同廿四日に任右大将、同日拝賀、十二月三日両官辞退してき。もとよりふしヽヽに正二位までの位には玉はりにけり。大臣も何もにてありけれど、わが心にいみじくはからい申けり。いかにもいかにも 末代の将軍にありがたし。ぬけたる器量の人なり。大将のよろこび申にも、いみじくめづらしき式つくりて、前駈十人はみな院の北面の物給はりて、随身かねよりが太郎かねひら給りて、公卿には能保、いもうとの男にて、やがて次第になしあげたれば、中納言にて、それ一人ぐして、やがてそのいもうとの腹のむすめに、むこにとりたりし公経中将、又いとこを子にしたる、もと家の中納言が子の保家少将、これらをぞぐしたりける。我車のしりに七騎の武士をよろいきせて、かぶとはきず、たヾ七人ぐしたりき。その名どもはたしかにもをぼへねば略しぬ。見る人こはゆヽしき見物かなと申けり。さて内裏にまいりあいて、殿下と世の政の作べきやうはなどふかく申承けり。
院へもたびヽヽまいりけり。経房大納言はじめより京の申次にせんと定申てありければ、のぼりても六はらへ行むかいつヽ、いみじき程に一番に院へまいりけるは、やがてつくりてまいらせたる六条殿指図よりヽヽして、なげしの上下までさたしもちて、もとよく参なれたるやうにふるまいて、人にもほめられんと思ひけるほどに、先に立て道びけとぞいわんずらんと思に、さもいはずすくヽヽと参けるに、しりに立て、白昼なればをぼつかなかるべくもなきに、「そこはなげしの上候下候」なにかと、天性口がましきなんありける人にて、云かけヽり。後物に心えぬ人にこそとぞ云ける。
かやうに在京の間人にほめられて、いくほどもなし、八幡・東大寺・天王寺などへ参めぐりて、十二月十八日かへりてくだりにけり。前の日大功田百町宣下など給けり。院に申ける事は、
「わが朝家のため、君の御事を私なく身にかへて思候しるしは、介の八郎ひろつねと申候し者は東国の勢人、頼朝うち出候て、君の御敵しりぞけ候はんとし候しはじめは、ひろつねをめしとりて、勢にしてこそかくも打えて候しかば、功ある者にて候しかど、「ともし候へば、なんでう朝家の事をのみ身ぐるしく思ぞ。たヾ坂東にかくてあらんに、誰かは引はたらかさん」など申て、謀反心の者にて候しかば、かヽる者を郎従にもちて候はヾ、頼朝まで冥加候はじと思ひて、うしない候にき」とこそ申けれ。
その介八郎を梶原景時してうたせたる事、景時がかうみやう云ばかりなし。双六うちて、さりげなしにて盤をこへて、やがて頚をかいきりてもてきたりける、まことしからぬ程の事也。こまかに申さば、さることはひが事もあれば、これにてたりぬべし。この奏聞のやう誠ならば、返々まことに朝家のたからなりける者かな。