愚管抄_陸奥国平定
愚管抄_陸奥国平定
同二年十一月廿六日に、又九郎を可搦進之由宣下ありけり。あさましき次第ども也。
又其後文治五年七月十九日に鎌倉をいでヽ、奥いりとて、終にみちの国のひでひらがあとやすひらと云、打とらんと頼朝の将軍思ひけり。尤いはれたり。かれは誰にもしたがはぬやうにて、みちの国ほどの国をひとへに領してあれば、いかでか我物にせざらん。ゆゝしく出でたちてせめいりて、同九月三日やすヽヽと打はらいてけり。さてみちの国も皆郎従どもにわけとらせて、この由上へ申てうるはしく国司なされて、年比にもにず国司のためもよくてありけり。