愚管抄_院政のはじまり
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愚管抄_院政のはじまり
さて世のすへの大なるかはりめは、後三条院世のすゑに、ひとゑに臣下のままにて摂籙臣世をとりて、内は幽玄のさかいにてをはしまさん事、末代に人の心はをだしからず。脱 のヽち太上天皇とて政をせぬならひはあしきことなりとをぼしめして、かた※※の道理さしもやはをぼしめしけん。くはしくはしらねども、道理のいたりよも叡慮にのこることあらじ。昔は君は政理かしこく、摂籙の人は一念わたくしなくてこそあれ。世のすへには、君はわかくて幼主がちにて、四十二にあまらせ給はきこへず。御政理さしもなし。宇治殿などはをほくわたくしありとこそは御覧じけめ。太上天皇にて世をしらん、当今はみなわが子にてこそあらんずればとをぼしめしける間に、ほどなくくらひををりさせ給て、延久四年十二月八日御譲位にて、同五年二月廿日住吉詣とて、陽明門院ぐしまいらせて、関白御ともして、天王寺・八幡などへまいりめぐらせたまいけり。住吉にて和歌会ありて、御製には、
いかばかり神もうれしと思らんむなしき船をさしてきたれば
とありけり。
その中に経信の歌に、
をきつ風ふきにけらしな住吉の松のしづゑをあらうしら浪
とよめるはこのたびなり。
さて同四月廿一日より御悩大事にて、五月七日御とし四十にてうせさせ給にけり。
かゝる御心のをこりけるも、君の御わたくしやをほかりけん。我御身はしばしも御脱 のヽち世をばをこなひ給はず。事のだうりは又世のすゑには尤かヽるべければ、白川院はうけとらせをはしまして、太上天皇のヽち七十七まで世をばしろしめしたりけり。