愚管抄_鎌倉の政争~比企・梶原謀殺
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愚管抄_鎌倉の政争~比企・梶原謀殺
さて又関東将軍の方には、頼家又叙二位左衛門督に成て、頼朝の将軍があとに候ければ、範光中納言弁なりし時、御つかいにつかはしなどして有ける程に、
建仁三年九月のころをい、大事の病をうけてすでに死んとしけるに、ひきの判官能員阿波国の者也と云者のむすめを思て、男子をうませたりけるに、六に成ける、一万御前と云ける、それに皆家を引うつして、能員が世にてあらんとてしける由を、母方のをぢ北条時政、遠江守に成てありけるが聞て、頼家がをとヽ千万御前とて頼朝も愛子にてありし、それこそと思て、同九月廿日能員をよびとりて、やがて遠かげ入道にしていだかせて、新田四郎にさしころさせて、やがて武士をやりて、頼家がやみふしたるをば、自元広元がもとにて病せてそれにすえてけり。さて本体の家にならひて子の一万御前がある、人やりてうたんとしければ、母いだきて小門より出にけり。されどそれに篭りたる程の郎等のはぢあるは出ざりければ、皆うち殺てけり。
其中にかすや有末をば、「由なし。出せよ出せよ」と敵もをしみて云けるを、ついに出さずして敵八人とりて打死しけるをぞ、人はなのめならずをしみける。
其外笠原の十郎左衛門親景、渋河の刑部兼忠など云者みなうたれぬ。ひきが子共、むこの児玉党など、ありあいたる者は皆うたれにけり。これは建仁三年九月二日の事なり。同五日、新田四郎と云者は、頼家がことなる近習の者なり、頼家までかヽるべしともしらで、能員をもさしころしけるに、このやうに成にけるに、本体の頼家が家の侍の西東なるに、義時と二人ありけるがよきたヽかいしてうたれにけり。
さて其十日頼家入道をば、伊豆の修禅寺云山中なる堂へをしこめてけり。頼家は世の中心ちの病にて、八月晦二かうにて出家して、広元がもとにすえたる程に、出家の後は一万御前の世に成ぬとて、皆中よくてかくしなさるべしともをもはで有けるに、やがて出家のすなはちより病はよろしく成たりける。九月二日かく一万御前をうつと聞て、「こはいかに」と云て、かたはらなる太刀をとりてふと立ければ、病のなごり誠にはかなはぬに、母の尼もとりつきなどして、やがて守りて修禅寺にをしこめてけり。かなしき事也。
さてその年の十一月三日、ついに一万若をば義時とりてをきて、藤馬と云郎等にてさしころさせてうづみてけり。さて次の年は元久元年七月一八日に、修禅寺にて又頼家入道をばさしころしてけり。とみにゑとりつめざりければ、頚にををつけ、ふぐりを取などしてころしてけりと聞へき。とかく云ばかりなき事どもなり。いかでかいかでかそのむくいなからん。人はいみじくたけくも力をよばぬ事なりけり。
ひきは其郡に父のたうとて、みせやの大夫行時と云者のむすめを妻にして、一万御前が母をばまうけたるなり。其行時は又児玉たうをむこにしたる也。
これより先に正治元年のころ、一の郎等と思ひたりし梶原景時が、やがてめのとにて有けるを、いたく我ばかりと思ひて、次々の郎等をあなづりければにや、それにうたへられて景時をうたんとしければ、景時国を出て京の方へのぼりける道にてうたれにけり。子共一人だもなく、鎌倉の本体の武士かぢはら皆うせにけり。これをば頼家がふかくに人思ひたりけるに、はたして今日かゝる事出きにけり。