愚管抄_邦綱の入知恵
愚管抄_邦綱の入知恵
永万元年八月十七日に清盛は大納言になりにけり。中の殿むこにて世をばいかにも行ひてんと思ひける程に、やがて仁安元年十一月十三日に内大臣に任じて、同二年二月十一日に太政大臣にはのぼりにけり。
さる程に其年の七月廿六日俄にこの摂政のうせられにければ、清盛の君、「こはいかに」と、いふばかりなきなげきにてある程に、邦綱とて法性寺殿のちかごろ左右なき者にて、伊予播磨守・中宮亮などまでなしてめしつかふものありき。この邦綱が清盛公が許にゆきて云けるやうは、
「この殿下の御あとの事は、必しもみな一の人につくべき事にも候はぬなり。かた※※にわかれてこそ候しを、知足院殿の御時の末にこそ一になりて候しを、法性寺殿ばかりこそみなすべておはしまし候へ。この北政所殿かくておはします。又故摂政殿の若君もこの御はらにてこそ候はねども、おはし候へば、しろしめさ(れ)んにひが事にて候はじものを」と云けるを、
あだに目をさまして聞よろこびて、そのまヽに云あはせつヽかぎりあることヾもばかりをつけて、左大臣にて松殿おはすれば左右なき事にて摂政にはなされて、興福寺・法成寺・平等院・勧学院、又鹿田・方上など云所ばかりを摂籙にはつけてたてまつりて、大方の家領鎮西のしまづ以下、鴨居殿の代々の日記宝物、東三条の御所にいたるまで総領して、邦綱北政所の御後見にて、この近衛殿の若君なる、やしなひて、世の政はみな院の御さたになして、
建春門院はその時小弁殿とて候ける。時信がむすめ、清盛が妻の弟なりければ、これと一にとりなして、後白河院の皇子小弁殿うみまいらせてもちたりけるを、やがて東三条にわたしまいらせて、仁安二年十月十日東宮にたてまいらせてけり。清盛は同三年二月十一日、病に沈みて、出家して後やみにけり。