愚管抄_道長の登場
from 愚管抄
愚管抄_道長の登場
其後、内大臣にて伊周、もと内覧の宣旨かうぶりたる人にてありけるに、大納言にて御堂はおはしけるは、道兼・道隆の弟なり。をぢの大納言その器量抜群(に)して、よも人もゆるしたりけり。我身もこのとき、「伊周執政の臣たらば、世はみだれうせなんずるが、身を摂籙の臣にをかれなば、よはをだしかるべき」と、さめヽヽとおほせられけり。いもうとの女院、当今の母后にて、ひしとかくおぼしめしたりけるを、主上の思ふやうにも御ゆるしなくてありけるほどに、いたく申されけるをうるさくやおぼしめしけん、あさがれひをたヽせ給て、ひの御座のかたにおはしまして、蔵人頭俊賢を御まへにめして、御ものがたりありける処へ、よるのをとヾのつまどをあけて、女院は御目のへんたヾならで、「いかによのため君のためよく候べきことをかく申候をば、きこしめしいれぬさまには候ぞ。このぎに候はヾいまはながくかやうのことも申候まじ。心うくくちおしきことに候ものかな」と申させ給けるとき、ゐなをらせ給て、「いかでかこれほどにおほせられんことをば、いなび申候べき。はやくおほせくだし候はん」と、内の御気色もまめやかになりておほせられければ、女院のわたらせ給と心えて、御前に候ける俊賢たちのきけるを、「さらばやがて蔵人頭俊賢候めり、めしおはしませ。申きかせ候はん」と申させ給ければ、「や、としかたこれへまいれ」とめしければまいりたりけるに、女院の、「大納言道長に太政官文書は奏せよと、とくおせほくだせ」と仰られければ、俊賢たかくゐせうしてまかりたちて、やがて仰下ければ、女院はあさがれいの方へかへらせ給て、御堂は大納言の左大将にて、この左右うけたまはらんとて、候まうけておはしけるに、女院は御袖にては御涙をのごひて、御目はなき御口はえみて、「はやく仰下されぬるぞ」とおほせられければ、かしこまりていでさせ給にけり。しばし大納言にて内覧臣にて、やがてその年程なく右大臣になられにけり。内覧臣なれば内大臣をこえられにけるなり。
長徳二年四月に、伊周内大臣とをとヽの隆家とは左遷せられて、内大臣は太宰権帥、中納言隆家は出雲権守になりて、をのヽヽながされにけることは、華山院を射まいらせたりけるなりけり。その事のをこりは、法住寺太政大臣為光は恒徳公とぞ申、この人二三人むすめありけり。一女は花山院に道心をこさせまいらする人にて、うせ給てのち道心さめさせ給て、其中のむすめにかよはせ給にけるに、又三のむすめを伊周の大臣かよひけるを、「この院のやがてこの三のむすめの方へもおはします」と人のいひけるを、やすからず思て、をとヽの隆家帥は十六にてありけるに、「いかヾせんずる。やすからず」といひけるほどに、隆家のわかく、いかうきやうなる人にて、うかヾひてゆみやをもちて射まいらせたりければ、御衣の袖をつひぢにいつけたりけり。あやうながらにげさせ給て、この事をばひしとかくしたりけるを、やうヽヽ披露して、さほどのこといかでかさてあるべきとて、さたどもありて、このことはありけるといひつたへたりけれど、小野宮の記には、やがてその夜よりきこえて正月十三日除目に内大臣円座とられたりけり。もともしかるべしと時の人いひけり。こまかにその日記には侍ればそれをみるべき也。
このとがなれど、御堂の御あだうかなと人思ひたりければ、返々いたませ給けり。をのヽヽのちにはめしかへされて、内大臣は儀同三司と云位をたまはり、隆家は帥になりてくだりなんどして、富有人になんいはれけり。帥になりてつくしへくだりて、いひしらずとくつきてのぼりたりけるに、いつしか御堂へまいりけるに、いであはせ給たりければ、いとも申事はなくて名符をかきて、ふところよりとりいだしまいらせていでにけり。いみじく心かしこなりける人なりとこそうけたまはれ。
かヽりけるほどに、一条院うせさせ給て後に、御堂は御遺物どものさたありけるに、御手箱のありけるをひらき御覧じけるに、震筆の宣命めかしき物をかヽせおはしましたりけるはじめに、三光欲明覆重雲大精暗とあそばされたりけるを御覧じて、次ざまをよませたまはで、やがてまきこめてやきあげられにけりとこそ、宇治殿は隆国宇治大納言にはかたり給けると、隆国は記して侍なれ。