愚管抄_通親の陰謀(つづく)
愚管抄_通親の陰謀(つづく)
この年八月八日、中宮御産とののしりけり。いかばかりかは、御祈前代にもすぎたりけり。されど皇女をうみまいらせられて、殿は口をしくをぼしけり。八条院やがてやしないまいらせて、たてばひかる、いればひかる程の、末代、上下貴賎の女房かヽる御みめなし。「御ぐしなどのよだけ、さこそ」とぞ世には云ける。院も、「あまりなるほどのむすめかな」とをぼしめして、つねにむかへたてまつりて見まいらせては、御心をゆかし給けり。後には院号ありて春花門院と申けり。この門の名をぞ人かたぶきける。
さて同七年冬の比こと共出きにけり。摂籙臣九条殿をいこめられ給ぬ。関白をば近衛殿にかへしなして、中宮も内裏を出で給ひぬ。これは何事ぞと云に、この頼朝がむすめを内へまいらせんの心ふかく付てあるを、通親の大納言と云人、この御めのとなりし刑部卿三位をめにして子ども生せたるを、こめをきたりしを、さらにわがむすめまいらせむと云文かよはしけり。
明雲が弟子の梶井の宮と云人、木曾が時いけどりにせられたりし、をとなしく成て内へ日々に参りなどして侍りしに、又浄土寺の二位密通のきこへありき。これらが云あはせつヽ、法皇うせをはしましけるとき、にはかに大庄をはりま・備前などにたてられたるをたをされにき。成経・実教など云諸大夫の家、宰相中将になりたる、とヾめなんどせられし事は、皆頼朝に云あはせつヽ、かのま引にてこそありと、誠にもこれ善政なりとをもはれたれば、かやうの事を浄土寺の二位もとがめて、梶井の宮にさヽやきつヽ、通親をも云ひすヽむるなりけり。内の御気色をうかがふに、又いたふ事うるはしくて、善政善政 とのみ云て、御遊どもはヾからしくをぼしめしけんをも見まいらせて、こヽにては頼朝が気色かうと申、関東へは君の御気色わろく候と云て、をもてを何となくし成して、又一定をとはんをりは、両方に会尺をまうくる由の案どもにて、これはさだまれる奇謀のならひなれば、かくして又仏神の加護もえあるまじき時いたりにければ、同七年の十一月廿三日に、中宮は八条院へいで給ひにけり。(つづく)