愚管抄_通親の陰謀(つづき)
愚管抄_通親の陰謀(つづき)
廿五日に、前摂政に関白氏長者と宣下せられぬ。上卿通(みちちか)・弁親国・職事朝経ときこへけり。やがて流罪にをよばんと、この人々申をこないけれども、それをば、つよく御気色えあらじとをぼしめしたりければ、云つぐべき罪過のあらばやは、さしても申べきなれば、さてやみにけり。
かヽりければ九条殿の弟山の座主にてありける、何も皆辞してければ、その所に梶井の宮承仁は座主になされたりける、次の年の四月に拝堂しけるより、やがて病つきて入滅せられにけり。あらたなる事かなと人云けり。慈円僧正座主辞したる事をば、頼朝も大にうらみをこせり。
かヽる程に同九年正月十一日に、通親はたと譲位をおこないて、この刑部卿三位が腹に、能円がむすめにて、この承明門院をはします腹に、王子の四にならせ給を践祚して、この院も今はやうヽヽ意にまかせなばやとをぼしめすによりてかく行てけり。関東の頼朝にはいたうたしかなるゆるされもなかりけるにや。頼朝も手にあまりたる事かなともや思ひけん。これらはしれる人もなきさかいの事也。さて帝の外祖にて能円法印現存してありしかば、人もいかにと思ひたりし程に、ほどもなく病てし(に)ヽき。よき事と世の人思へりけり。