愚管抄_通親の死と良経の昇進
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愚管抄_通親の死と良経の昇進
かヽる程に院の叡慮に、さらにさらに ひが事御偏頗なるやうなる事はなし。たヾをぼしめしも入ぬ事を作者のするを、ゑしろしめさずさとらせ玉はぬ事こそちからをよばね。かやうにてあれど内大臣良経は、(内大臣は)さすがにいまだとられぬやうにておはせしを、院よくヽヽおぼしめしはからひて、右大臣頼実を太政大臣にあげて、正治元年六月廿二日任大臣おこなはれけり。兼雅公辞退の所に、左大臣に故摂政をなして、近衛殿の当摂政なるが嫡子、当時の殿を右大臣になして、通親は内大臣になりにき。頼実の公あさましく腹立て、土佐国辞て入りこもりて人にいはれけり。通親が我内大臣にならんとてしたる事と思ひけり。九条殿の左右なき御うしろみ宗頼は大納言にて、この卿二位がをとこにてありしを、いみじき事にて九条殿はあられけり。されども心ばへよきばかりにて、つよヽヽしき事もなかりけり。
さる程に、つねに院の御所には和歌会・詩会などに、通親も良経も左大臣、内大臣とて、水無瀬殿などにて行あひヽ しつつ、正治二年の程はすぎけるに、この年の七月十三日に左府の北方はうせにけり。十日産をしてその名残ときこへき。さるほどに松殿のむすめを、さやうにもいわれければ、次の年建仁元年十月三日むかへられにけり。年八廿八ときこへき。その年十二月九日母の(北)政所うせられぬ。
建仁二年(十月)廿一日に、通親公等うせにけり。頓死の体なり。ふかしぎの事と人も思へりけり。承明門院をぞ母うせて後はあいしまいらせける。
かヽりける程に、院は範季がむすめをおぼしめして三位せさせて、美福門院の例にもにてありけるに、王子もあまた出きたる。御あにを東宮にすえまいらせんとおぼしめしたる御けしきなれば、通親の公申さたして立坊ありて、正治二年四月十四日に東宮に立て、かやうにてすぐる程に、九条殿は又(北)政所にをくれて出家せられにけり。さる程に、院の御心にぞふかく、世のかはりし我が御心よりをこらずと云ことを、人にもしられんとやおぼしめしけん、建仁二年十一月廿七日に左大臣に内覧・氏長者の宣旨をくだして、やがて廿八日に熊野御進発なりにけり。母北政所重服、この十二月ばかりにてありけり。さて熊のより御帰洛の後、十二月廿七日に摂政詔くだされにけり。さて正月一日の拝礼のさきによろこび申せられにければ、よの人は、「こはゆヽしく目出きことかな」と思けり。
宗頼大納言は成頼入道が高野に年比おこないてありける、入滅したる服をきるべきを、真のおやの光頼の大納言がをば、成頼がをきむずればとてきざりけり。これは又あまりに世にあいていとまをおしがりてきず。さて親もなかりける者になりぬることを、人もかたぶきけるにや。かく熊のヽ御幸の御ともにまいりて、松明の火にて足をやきたりけるが、さしも大事になりて、正月卅日うせにけり。其後、卿二位は夫をうしないて又とかくあんじつヽ、この太相国よりざねの七条院辺に申よりて候けるに申などして、又夫にしてやがて院の御うしろみせさせて候ける。