愚管抄_薬子の乱と良房の登場
薬子の乱と良房の登場
さて桓武の御子三人、平城・嵯峨、御中ことのはじめにあしかりけり。みやこうつりのあひだ、いまだひしともおちゐぬほど、御心々にてあしくなりぬ。それも平城の内侍督薬子が処為といふ。あしきことをも女人の入眼にはなる也。嵯峨東宮のあひだ、平城国主の時、東宮を可奉廃之よし沙汰有りけりと、後中書王の御物語ありけり。それは伝大臣冬嗣申すヽめて、「事火急に候、可令申宗廟(給)」とて、桓武の聖廟を拝して東宮訴申給しかば、天下みだれゆきて、平城この御ひが事を思かへらせ給にけりとなんかたらせ給にけり。
一番にみな末代のをもむきをばあらはさるヽなり。
次淳和と嵯峨とは、あやにくに御中よくて、二人脱の後は、ゆきあひつ、神泉にてあそばせ給けり。さて仁明は嵯峨の御子にて位に付て、又淳和の御子を東宮にたてられてあるほどに、淳和は承和七年五月八日にかくれ給ぬ。嵯峨は又同九年七月十五日に崩御をはりにけり。この二人の太上(天)皇のうせさせ給をやまたれけん、この東宮の御方人発覚の事ありけるを、其後いつしか中一日ありて、十七日に阿保親王の、当今の仁明の御母につげまいらせらるヽ事ありけり。東宮のたちはき健峯と云ものまいりて申たりける。わがヽた人になんと思けるにや。但馬権守橘逸勢・大納言藤原愛発・中納言同吉野などいふ人々謀反おこして、東宮いそぎ位につけたてまつらんと云ことを、おこすといふ事いできて、大皇太后宮いそぎ中納言良房をめして、かヽる事と仰られあはせて、この人々皆ながされにけり。橘逸勢伊豆の島へなどつかはされて、大納言よしちか解官のところに良房は大納言になられにけり。東宮は十六にならせ給ければ、我御心よりはおこらずもありけん。この東宮をば恒貞親王とぞ申ける。太子の冷泉院におはしますへまいられたりけるに申されければ、われしらずと仰られけれど、この御れうにこれらが支度する事あらはれにければ、参議正躬王に勅して、東宮をば送廃しまいらせられにけり。さて同四日道康親王と云は文徳天皇也。是を東宮に立まいらせられにけり。
あはれあはれかまへて仁徳の御世までこそなからめ、仁徳は平野大明神也、仁賢・顕宗の御心づかひにてあらばや、嵯峨と淳和とは、すこぶるそのをもむきおはしけるとぞ申伝て侍れ。