愚管抄_蓮華王院建立
愚管抄_蓮華王院建立
さて後白河院は多年の御宿願にて、千手観音千体の御堂をつくらんとおぼしめしけるをば、清盛奉りて備前国にてつくりてまいらせければ、長寛二年十二月十七日に供養ありけるに、行幸あらばやとおぼしめしたりけれど、二条院は少しもおぼしめしよらぬさまにてありけるに、寺づかさの勧賞申されけるをも沙汰もなかりけり。親範職事にて奉行して候ける、御使しける。この御堂をば蓮華王院とつけられたり。その御所にて御前へ召て、「いかに」と仰られければ、親範、「勅許候はぬにこそ」と申たりければ、御目に涙を一とはたうけて、「やヽ、なんのにくさに+」とぞ仰られて、「親範がとがとまでおぼしめされ候にし。おそれ候て」とぞ親範はかたり侍りける。此御堂は、真言の御師にてこまの僧正行慶は白河院の御子なり、三井門流にたうとき人なりしかば、院は偏にたのみおぼしめしたりけるが、ことにさたして中尊の丈六の御面相を手づからなをされけり。万の事に心きヽたる人とぞ人は云ける。六宮の御師なり。