愚管抄_落日の平家
愚管抄_落日の平家
北国の方には、帯刀先生義方が子にて、木曾冠者義仲と云者などおこりあひけり。宮の御子など云人くだりておはしけり。清盛は三条の以仁の宮うちとりて、弥心おごりつヽ、かやうにしてありけれど、東国に源氏おこりて国の大事になりにければ、小松内府嫡子三位中将維盛を大将軍にして、追討の宣旨下して頼朝うたんとて、治承四年九月廿一日下りしかば、人見物して有し程に、駿河の浮島原にて合戦にだに及ばで、東国の武士ぐしたりけるも、皆落て敵の方へゆきにければ、かへりのぼりけるは逃まどひたる姿にて京へ入にけり。其後平相国入道は同五年閏二月五日、温病大事にて程なく薨逝しぬ。その後に法皇に国の政かへりて、内大臣宗盛ぞ家を嗣て沙汰しける。
高倉院は先立て正月十四日にうせ給ひにき。かくて日にそへて、東国、北陸道みなふたがりて、このいくさにかたん事を沙汰してありけれど、上下諸人の心みな源氏に成にけり。次第にせめよするきこへども有ながら、入道うせて後、寿永二年七月までは三年が程すぎけるに、先づ北陸道の源氏すヽみて近江国にみちけり。これよりさき越前の方へ家の子どもやりたりけれど、散※※に追かへされてやみにけり。となみ山のいくさとぞ云ふ。かヽりける程に七月廿四(日)の夜、事火急になりて、六はらへ行幸なして、一家の者どもあつまりて、山しながために大納言頼盛をやりければ再三辞しけり。頼盛は、
「治承三年冬の比あしざまなる事ども聞ゑしかば、ながく弓箭のみちはすて候ぬる由故入道殿に申てき。遷都のころ奏聞し候き。今は如此事には不可供奉」
と云けれど、内大臣宗盛不用也。せめふせられければ、なまじいに山しなへむかいてけり。
かやうにしてけふあす義仲・東国武田など云もいりなんずるにてありければ、さらに京中にて大合戦あらんずるにてをのヽきあいける程に、廿四日の夜半に法王ひそかに法住寺殿をいでさせ給ひて、鞍馬の方よりまはりて横川へのぼらせをはしまして、あふみの源氏がりこの由仰つかはしけり。たヾ北面下臈にともやす、つヽみの兵衛と云男御輿かきなんどしてぞ候ける。暁にこの事あやめ出して六はらさはぎて、辰巳午両三時ばかりに、やうもなく内をぐしまいらせて、内大臣宗盛一族さながら鳥羽の方へ落て、船にのりて四国の方へむかいけり。六はらの家に火かけて焼ければ、京中に物とりと名付たる者いできて、火の中へあらそい入て物とりけり。