愚管抄_臣家の役割
from 愚管抄
臣家の役割
さてこのヽち、臣家のいできて世をおさむべき時代にぞ、よくなりいる時までまた天照大神あまのこやねの春日の大明神に同侍殿内能為防護と御一諾をはりにしかば、臣家にて王をたすけたてまつらるべき期いたりて、大織冠は聖徳太子につ恠きて生れ給て、又女帝の皇極天皇御時、天智天皇の東宮にておはしますと、二人して、世ををしをこないける入鹿がくびを節会のにはにて身づからきらせ給ひしにより、唯国王之威勢ばかりにてこの日本国はあるまじ、たヾみだれにみだれなんず、臣下のはからひに仏法の力を合て、とおぼしめしけることのはじめはあらはに心得られたり。
さればそのをもむきのまヽにて、今日までも侍にこそ。
皇極と申は、敏達のやしはご、舒明の后にて、天智天皇をうみたてまつりて東宮にたてヽやがて位につきておはしましけるは、神功皇后の例を、をはれけるとあらはにみえ侍り。次には天智位につかせ給べけれども、孝徳天皇、天智のおぢにて皇極の御をとヽなりけるが、王位の御運も有り、其徳もおはしましければにや、それをさきだてヽ位につけまいらせて十年、其後猶、御母の皇極を重祚にて又七年、このたびの御名は斉名と申けり。重祚のはじまることもこの女帝の時也。天智は孝養の御心ふかくて、御母の御門うせおはしまして後、なを七年の後に位につかせ給ひけるに、大織冠はひしと御まつりことをたすけて、藤原の姓をはじめて給りて、内大臣と云事もこれにはじまりておはしましけり。天智は十年たもち給ふに、第八年に大織冠うせ給時、行幸成てなくヽヽわかれをおしみ、いともかしこくかたじけなき御なさけにてこそ侍けれ。
さて又天智の御をとヽ、はらもやがて斉明天王にておはしましける天武天皇を、東宮として御位ひきうつし給べかりけるを、天智の御子大友王子とておはしけるをば大政大臣になしておはしましけるが、御心のうるはしからざりけるをや天武は御らんじけん、位を(辞)し給て御出家有て、吉野山にこもりゐさせ給ければ、天智大になげきながら崩御をはりて後、大友皇子いくさをおこして芳野山をせめたてまつらんとするとき、大友皇子のさきにては、やがて天武天皇の御むすめのおはしましければ、御父のやがてころされ給はん事をかなしみやおぼしめしけん、かヽることいできたるよしを、しのびやかに芳野山へつげまいらせられたりけるとぞ申伝へたる。是をきヽて「こはいかに我は我とよしなく思て出家に及てとりこもりたるを、かくせめらればこそ」とて吉野山を出て出家のかたちをなをして、伊勢太神宮をおがみたまひて、美濃・尾張の勢をもよほしおこして、近江国に大友皇子いくさをまうけ給たりけるによせたヽかひて、天武天皇の御かたかちにければ、大友皇子のくびをとりて、其時の左右大臣、大友皇子の御方にて有りけるをも、おなじくくびをとり、或流しなどして、やがて位につき世をおさめ給て十五年おはしましけるにも、大織冠の御子孫たちこそは、偏に輔佐には候はせ給けめ。淡海公は無下にまだしくやおはしましけん。加様の次第をば、かくみちをやりて正道どもを申ひらくうへは、ひろくしらんと思はん人はかんがへみるべき事也。