愚管抄_義朝方の敗戦
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愚管抄_義朝方の敗戦
かヽりける程に内裏には信頼・義朝・師仲、南殿にてあぶの目ぬけたる如くにてありけり。後に師仲中納言申けるは、義朝は其時、信頼を、「日本第一の不覚人なりける人をたのみて、かヽる事をし出つる」と申けるをば、少しも物もゑいはざりけり。紫宸殿の大床に立てよろひとりてきける時、だいとけいの唐櫃の小鈎を守刀に付たりけるを、師仲は内侍所の御体をふところに入て持たりける、「たべ、その鈎これにぐしまいらせてもたん。その刀につけて無益なり」と云ければ、「誠に」とてなげおこせたりければ、取て、「いづちも御身をはなれ申まじきぞ」とて、あいずりの直垂をぞ着たりける。やがて義朝は甲の緒をしめて打出ける。馬のしりにうちぐしてありけれど、京の小路に入にける上は、散々にうちわかれにけり。
さて六波羅よりはやがて内裏へよせけり。義朝は又、「いかさまにも六波羅にて尸をさらさん。一あてしてこそ」とてよせけり。平氏が方には左衛門佐重盛清盛嫡男・三河守頼盛清盛舎弟、この二人こそ大将軍の誠にたヽかいはしたりけるはありけれ。重盛が馬をいさせて、堀河の材木の上に弓杖つきて立て、のりかへにのりける、ゆヽしく見へけり。鎧の上の矢どもおりかけて各六波羅に参れりける。かちての上は心もおち居て見物にてこそありけれ。
義朝は又六波羅のはた板のきはまでかけ寄て、物さはがしくなりける時、大将軍清盛はひた黒にさうぞきて、かちの直垂に黒革おどしの鎧にぬりのヽ矢おいて、黒き馬に乗て御所の中門の廊に引よせて、大鍬形の甲取て着て緒しめ打出ければ、歩武者の侍二三十人馬にそひて走りめぐりて、「物さはがしく候。見候はん」と云て、はたヽヽと打出けるこそ、時にとりてよにたのもしかりけれ。