愚管抄_義仲の敗死
from 愚管抄
愚管抄_義仲の敗死
かヽる程にやがて次の年正月の廿日、頼朝この事きヽて、弟に九郎と云ひし者に、土肥実平・梶原景時・次官親能など云者さしのぼせたるが、左右なく京へ打いりて、その日の内に打取て頚とりてき。その時すでに坂東武者せめのぼると聞て、義仲は郎等どもを、勢多・宇治・淀なんどの方へちらしてふせがせんと、手びろにくはだてヽ有けるほどに、すヽどに宇治の方より、九郎、ちかよしはせ入りて川原に打立たりときヽて、義仲はわづかに四五騎にてかけ出でたりける。やがて落て勢多の手にくはヽらんと大津の方へをちけるに、九郎をひかヽりて大津の田中にをいはめて、伊勢三郎と云ける郎等、打てけりときこへき。頚もちて参りたりければ、法皇は御車にて御門へいでヽ御覧じけり。