愚管抄_立子中宮の皇子誕生
愚管抄_立子中宮の皇子誕生
又中宮は世に大事なる御病ありけるに、御せうとにて良尊法印とて、寺法師実慶大僧正が弟子にてありける人、師もてヽもうせて、大峯笙の岩屋などをこないけるが御修法して候ける、すゞろに御加持に参たびに、うるはしく祈もまいらせぬに、御物の気のあらはれければ、さらばとて祈まいらせてしるしありて、あらたにやませ給にけり。平法印にて有ける、大僧都に賞かうぶりなどして有けるほどに、
建保五年四月廿四日、忽に御懐姙ありて又皇女をうみ給にけり。猶皇子かたき事かな。中ヽヽてての殿などをはせねば、もしさもやとこそ思ひつるになど、人も思ひたりけるほどに、其次の年の正月より又御懐姙と聞へて、十月十日寅の時に御産平安、皇子誕生思のごとくの事出きにけり。上皇ことに待よろこばせ給て、十一月廿六日にやがて立坊有けり。清和の御時より一歳の立坊さだまれる事也。かゝるめでたき事世の末に有がたき事かな。猶世はしばしあらんずるにやなど、上中下の人々思たりけり。
御堂の御むすめにて上東門院、一条院のきさきにて、後一条・後朱雀院二ところの母后にて、又後朱雀院に上東門院の御弟内侍のかみとて、後冷泉院うみ申されて後は、一の人のむすめ(入)内立后はをほかれど、すべて御産と云こと絶へたり。
四条宮宇治殿娘後冷泉院后。小野皇(太)后宮大二条殿女同院后。賀陽院知足院殿女鳥羽院院号の後。皇嘉門院法性寺殿女崇徳院后。皇后宮同女二条院后。これらすべて御産なし。宜秋門院九条殿女当院后。これは春華門院をはしましヽかど、先に其次第を申つ。此中宮、後京極殿むすめにて、かくはじめ姫宮、後に皇子にて、東宮にたヽせ給ふ。返々有がたき事也。