愚管抄_皇道・帝道・王道
愚管抄_皇道・帝道・王道
大きにこ<れ>を分かつに漢家(かんか=中国)に三つの道あり。皇道(=三皇五帝の政道)・帝道(=帝者の徳治)・王道(=夏殷周の徳治)也。この三つの道に、この日本国の帝王を推知(=類推)して擬(なぞら)へ充てて申さまほしけれど、それは日本国には、『日本記』已下(いげ=以下)の風儀にも劣り、つやつやと(=全く何も)無き事にて中々(=却て)悪しかりぬべし。その分際(=程度)はまた知りたからん人は、みなこの仮名の戯言にも「その程(ほど)よ」などは思ひ合はせられむずる事ぞかし。
漢土に衛鞅(=商鞅)と云ふ執政の臣の出で来しが<こ>とこそ、万(よろ)づの事の器量を知る道にはよき物語にて侍れ。秦代に孝公(第十三代)良き臣を求め給ひしかば、景監と云ふ者衛鞅を求めて参らせたり。見参に入りて天下を治めらるべき様(やう)を申す。孝公聞こし召して御心に適(かな)はずと見ゆ。又参りて申す。うちねぶりて聞こし召し入れず。第三度「まげて今一度見参にいらむ」と申して参ら令(し)めて申しけるたび、居寄り居寄りせさせ給ひて、いみじく用ゐられけり。さてひしと天下を治めてけり。
それは一番には帝道を説きて諌(いさ)め申しけり。次には王道を説きて教へ申しけり。この二度(たび)御心にかなはず。第三度の度(たび)この君かなはじと見参らせて、覇業を説き申して用ゐられにけり。秦の始皇と申す君も覇業の君とこそ申すなれ。
後に又魏の斉王の時に、范叔(はんしゆく)と云ふ臣の世を取りたる。衛鞅をいみじき者と云ふけれど、蔡沢(さいたく)と云ふ者出で来て、「衛鞅はいみじかりしが、後に車裂(くるまざき)にせられたりなど申すぞかし。王臣も一期生(いちごしやう=一生)無為無事にこともなくて過ぐるこそは良けれ」と論じて、范叔は蔡沢に論(ろんじ)負けて、さらばとて世の政(まつりごと)を蔡沢にゆづりて入り籠りにければ、蔡沢受け取りて誠に王臣一生は穏(をだ)しくて止みにけり。あはれ好(この)もしき者どもかな。蔡沢が目出度(めでた)きよりも、范叔が我が世を道理に折れて、去りて退(の)きける心有り難かるべし。漢家の聖人賢人の有り様これにて皆知らるべし。唐太宗の事は貞観政要にあきらけし。仏の悟りにも、菩薩(ぼさつ=修行者)の四十二位(=42段階)まで立つるも、善悪の悟り分際皆思ひ知らるる事なり。
今神武以後、延喜・天暦まで下りつつ、この世(=今の世)を思ひ続くるに、心も言葉も及ばず。さりながらこの代に臨(のぞ)みて思ふに、神武より成務まで十三代は、王法・俗諦(ぞくたい)ばかりにて、いささかの様(やう=子細)もなく、皇子々々うち続きて八百四十六年は過ぎにけり。仲哀より欽明まで十七代は、とかく落ち上がりて、安康・武烈の王も混じらせ給ひて、又仁徳・仁賢めでたくて過ぎにけり。三百九十四年なり。十三代よりも十七代は少なし。
さて欽明に仏法渡り始めて、敏達より、聖徳太子の幼なくおはします五つ六つより渡るところの経論、ひとへに幼なき人にうちまかせて、見解きて王に申させたまひて、敏達・用明・崇峻三代は過ぎぬ。その次に女帝の推古にひしと太子を摂政にて、仏法に王法は保(たも)たれておはしませば、この敏達より桓武まで二十一代、この平安の京へ移るまでを一段にとらば、その間は二百卅六年、これ又十七代の年の数よりも少なし。