愚管抄_皇后の系譜
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愚管抄_皇后の系譜
さてその敦康の親王の御むすめは、御堂の四の御むすめ、御堂の御存日に十九にて後冷泉院をうみまいらせて後うせさせたまいにけり。
後に陽明門院は又中宮とてをはしますを、やがて皇后宮にあげて、敦康王のむすめ嫄子を中宮になして、陽明門院をば内裏へもいれまいらせられざりけり。この中宮もをぼへにてひめみや二人うみてをわしましけれども、中一年にて程なくこの中宮うせさせ給にければ、其後こそ又陽明門院は、禎子とぞ申、かへりいらせをわしまして侍りけれ。
かやうのゆへは、この敦康の親王の母は、道隆の関白のむすめにて、たヾの親王にて位は思もよらず。されど御前にては、又具平親王の御むすめにてありければ、宇治殿の北政所をば高倉の北政所と申にや、あさましく命ながくてむごまでをはしけり。この北政所の弟にて、このあつやすのごぜんにてをはしければ、その御むすめにて嫄子の中宮はをはしますによりて、宇治殿の子にして姓も藤原氏の中宮にて、入内立后もありけるなり。かくあればにや、後三条院の、陽明門院の御母なるを、後冷泉院に譲位の時なにとなくてありけるに、
能信がふとまいりて、御出家の御師と申事は、
又御堂の御子の中にこの能信を陽明門院の御うしろみにつけてをはしましけり。女院の御母、御堂の御むすめなれば、女院皇后宮の時の大夫にて、やがてこの御腹の王子、後三条院の御うしろみにてありけるが、
御元服の時よのすけもなくて、春宮御元服あれど、女御にはまいらせたりけるなり。九条殿の子孫摂籙のかたをはなれて、閑院のかたざまに継ていのきみのならせ給ふはじめばかりこそみゆれ。このゆへに能信はさは申て申えたりけるなり。
かやうなる事にて宇治殿は、てヽの御堂をほくの勧賞どもありけるを、能信にもたびたりけるが、すこし昇進しにくき事書たりけるには、御堂にむかいらせて、能信もきヽけるに、「御子なればとてすゑずゑまで御勧賞などをたび候ときに、かヽるはづらいも候ぞかし」と、をとヽの事をその座(に)をきて、てヽ(の)とのに申されければ、御堂は物も仰られざりけりなど云つたへたることにて侍れば、かやうのことヾもの下につよくこもりたりけるなり。
さればとてもまたぞをろかならずあしきこともなかりけり。されば又後三条院もよくヽヽ人々の器量をも御覧じつヽ、終には京極大殿には、むすめ白河院のきさきにまいらせさせて、をだしくてこそは侍れ。その賢子の中宮を、白河院東宮の御時よりをぼしめしたりける。をぼゑがらのたぐひなく、無二無三の御ことにて、とかく人云ばかりなくめでたかりける間に、二条殿の子の信長太政大臣などの方ざまゑや、うつらんずらんなど人思ひたりけるも、さもなき事にてやみにけるなり。