愚管抄_皇位の譲り合い
愚管抄_皇位の譲り合い
さて応神の御のち清寧まで八代は、皇子々々つがせ給ふ。仁徳の御子は三人まで位につかせ給ふ。顕宗の御時、これは又履中のむまごなり。
仁徳天皇は、応神うせおはしましてのち、御在生の時太子に立給ふ宇治皇太子也。それこそは則即位せさせ給べかりけんに、仁徳はあにヽておはしましければにや、仁徳を「位につかせ給へ」と申させ給けり。仁徳は「太子に立給たり。いかでさること候はん」と、互位につかんといふあらそひこそある事を、これはわれはつかじヽヽヽといふあらそひに、三年までむなしく年をへにければ、宇治の太子かくのみ論じて国王おはしまさでとしふる事、民のためなげきなり、我身づから死なんとのたまひてうせ給にけり。これを仁徳きこしめして、さはぎまどひてわたらせ給たりければ、三日になりけるがたちまちにいきかへりて御物がたりありて、猶ついにうせ給にけり。其後仁徳は位につきて八十七年までおはしましけり。
この次第こそ心もことばもをよばね。人といふものは、身づからをわすれて他をしるを実道とは申侍也。この宇治太子の御心ばへをあらわさんれうに、太子に立まいらせられけるにやとこそ推知せられ侍れ。応神などの御あとのことは、さだめてかヾみおぼしめしけん、日本国の正法にこそ侍めれ。