愚管抄_白河院政の名残り
愚管抄_白河院政の名残り
さてもさてもこの世の変はりの継ぎ目に生まれあひて、世の中の<目の>前に変はりぬる事を、かくけざけざと見侍ることこそ、世に哀れにもあさましくも覚ゆれ。人は十三四まではさすがに幼きほど也。十五六ばかりは心ある人は皆何事も弁へ知らるること也。この五<十>年が間(※慈円は13で正式に出家、愚管抄を執筆は65なので、50年間の出来事を考察した?)、これを見聞くに、全てむげに世に人の失せ果てて侍る也。その人の失せゆく継ぎ目こそ、いかに申すべしともなけれども、をろをろ、尤もこの世の人<の>心得知らるるべき節(ふし=機会)なければ、思ひ出だして申しそふる也。
今の<世の>風儀は忠仁公(=良房)の後を申すべきにや。それは猶上代なり。一条院の四納言(=斉信、公任、行成、源俊賢)の頃こそはいみじき事にて侍るめれ。僧もその時にあたりて、弘法・慈覚・智証の末流どもも、仁海・皇慶・慶祚などありけり。僧俗の有り様、いささかその風儀の塵(ちり)ばかりづつも残りたるかと覚ゆるは、いつまでぞと云ふに、家々を尋ぬべきに、まづは摂籙臣の身々(みみ)、次にはその庶子どもの末孫、源氏の家々、次々の諸大夫どもの侍る中には、この世の人は白河院の御代を正法にしたる也。
尤も可然(しかるべし)々々。降(お)り居の御門(みかど)の御世(=院政)になりかはる継ぎ目なり。白河院の御世に候ひけん人は近くまでもありしかばこれを心得べし。一条院の四納言の末も白河院の初めまでは、同じ程の事の、やうやう薄くなるにてこそあれ。白河院御脱屣の後、一(ひと)落ち一落ち下れども、猶またその跡は違(たが)はず。
後白河院の御時になりて、一の人は法性寺殿、一の人の庶子の末は花山院忠雅、又経宗、伊通(これみち)相国、閑院には間近く公能(きみよし)子三人、実定・実家・実守、公教(きみのり)子三人、実房・実国・実綱、公通(きみみち)・実宗父子、これらまで。
又源氏には雅通公、諸大夫には顕季(あきすゑ)が末は隆季・重家、勧修寺(くわじうじ)には朝方(ともかた)・経房、日野には資長・兼光父子、これらは、見聞きし人々は、これらまでは塵ばかり昔の匂ひはありけるやらむと、その家々の大方(をほかた)の器量は、覚えき。中の難(=身内の非難)どもは沙汰の外(ほか)なり。
光頼大納言、桂(かつら)の入道とてありしこそ、末代に抜け出でて人に褒められしか。二条院<の>時は、「世の事一<向>【同】に沙汰せよ」と云ふ仰せありけるを、ふつに辞退して出家してけるは、誠によかりけるにや。ただし大納言になりたる事こそおぼつかなけれ。「諸大夫の大納言は光頼にぞ始まりたり」なんど人に言はるめりまで也。「かからん人は成らで候なん」などや思ふべからん。昔は諸大夫<の>何かと器量ある士をば沙汰なかりき。さやうの頃は勿論(=異論なき)也。久しくかやうの品秩(ほんちつ)定まりて「諸大夫の大納言光頼に始まりたる」など言はるる事は、上品の賢人の言はるべき事にはなきぞかし。末代にはこの難はあまり也。<光頼は>いかさまにもよく許されたりける者にこそ<あれ>。
この人々の子共(ども)の世になりては、つやつやと、生まれつきより父祖の気分の器量の削り捨てて無きに、孫(むまご)どもになりては当時(=今)ある人々にてあれば、とかく善き人とも、悪ろき人とも云ふに足らぬ事にて侍る也。