愚管抄_現在の学問の水準
愚管抄_現在の学問の水準
今仮名にて書くこと高きやうなれど、世の移りゆく次第と【を】心得べき様(やう)を、書きつけ侍る意趣は、惣じて僧も俗も今の世を見るに、智解(ちげ=知恵の理解)のむげに失せて学問と云ふことをせぬなり。学問は僧の顕密を学ぶも、俗の紀伝・明経を習ふも、これを学(がく)するに従ひて、智解にてその心を得ればこそ面白くなりて為(せ)らるることなれ。すべて末代には犬の星を守(=見守る)るなんど云ふやうなることにてえ心得ぬなり。
それは又学し<てぞ書か>【とかく】する文(ぶん)は、梵本より起こりて漢字にてあれば、この日本国の人はこれを和(やは)らげて和詞(やまとことば)になして心得るも、猶うるさくて知解の要(い)るなる。明経に十三経とて、孝経・礼記より、孔子の春秋とて、左伝・公羊(くやう)・穀(こく)など云ふも、又紀伝の三史、八代史乃至(ないし)文選・文集・貞観政要(ぢやうぐわんせいえう)これらを見て心得ん人のためには、かやうの事は可笑(をか)し事にてやみぬ。
本朝にとりては入鹿が時、豊浦大臣(とよらのおとど=蝦夷)の家にて文書みな焼けにしかども、舎人親王のとき清人と『日本記』を猶つくられき。又大朝臣(おおのあそん)安麿など云ふ説もありける。それよりうち続き『続日本記』五十巻をば、初め二十巻は中納言石川野足、次十四巻は右大臣継縄、残り十六巻は民部大輔菅野真道、これら本体とはうけ給りて作りけり。『日本後記』は左大臣緒嗣、『続日本後記』は忠仁公、『文徳実録』は昭宣公、『三代実録』は左大臣時平、かやうに聞こゆ。又律令は淡海公(=不比等)つくらる。弘仁格式は閑院大臣冬嗣、貞観格は大納言氏宗、延喜格式は時平作りさしてありけるをば、貞信公作り果てられけり。この外にも官曹事類とかや云ふ文も在(あ)むなれども、持たる人もなきとかや。蓮華王院(=三十三間堂)の宝蔵には置かれたると聞こゆれど、取り出して見むと云ふ事だにもなし。
すべてさすがに内典・外典の文籍は、一切経などもきらきらと在(あ)むめれど、鶸(ひは)の胡桃を抱へ、隣の宝を数ふると申すことにて学する人もなし。さすがに殊にその家に生(む)まれたる者はたしなむと思ひたれど、その義理(=意味)を悟ることはなし。いよいよこれより後、当時(=今)ある人の子孫を見るに、いささかも親の跡に入るべしと見ゆる人もなし。