愚管抄_無道な平家一門
愚管抄_無道な平家一門
入道かやうの事ども行ひちらして、西光が白状を持て院へ参りて、右兵衛督光能卿を呼出して、「かヽる次第にて候へばかく沙汰し候ぬ。是は偏に為世為君に候。我身の為は次の事にて候」とぞ申ける。さてやがて福原へ下りにけり。下りざまの出たちにて参りたりけり。
これより院にも光能までも、「こはいかにと世はなりぬるぞ」と思ひける程に、小松内府重盛治承三年八月朔日うせにけり。この小松内府はいみじく心うるはしくて、父入道が謀叛心あるとみて、「とく死なばや」など云と聞へしに、いかにしたりけるにか、父入道が教にはあらで、不可思議の事を一つしたりしなり。子にて資盛とてありしをば、基家中納言壻にしてありし。さて持明院の三位中将とぞ申し。それがむげにわかヽりし時、松殿の摂籙臣にて御出ありけるに、忍びたるありきをしてあしくいきあひて、うたれて車の簾切れなどしたる事のありしを、ふかくねたく思て、関白嘉応二年十月廿一日高倉院御元服の定に参内する道にて、武士等をまうけて前駈の髻を切てしなり。これによりて御元服定のびにき。さる不思議ありしかど世に沙汰もなし。次の日より又松殿も出仕うちしてあられけり。このふしぎこの後のちの事どもの始にてありけるにこそ。