愚管抄_源高明の失脚
源高明の失脚
一条院の御時、四納言とのヽしるぬきまだらもなき四人は、斉信・公任・俊賢・行成とて、四人大納言までにて、つゐに大臣にはゑならず。俊賢こそ、西宮左大臣、延喜御子、一世の源氏にて、凡人になりて、ゆヽしき人なりける、その子にて侍ければ、その西宮左大臣ながされけることも大切なれば、この次に申べきなり。
村上皇子三人、安子の中宮の御腹に、第一は冷泉院、第二は為平親王、第三円融院なり。西宮左大臣は延喜の御子にて、やがて北方は九条殿の娘なり。かヽりければこの高明左大臣のむすめを、為平王にはまいらせて、高明のむこにておはしましけるを、冷泉院即位のすなはち、あにの為平ををきて、おとヽの円融院を東宮にたてヽおはします。これは康保四年九月一日と云めり。安和二年三月のころ、この左大臣高明謀反の心ありて、むこの為平をとをもひけるなるべし。冷泉院ほどなく御物怪にて御薬しげヽれば、何となくたぢろきけるころにや。
左馬助源満仲、武蔵介藤善時など云、時の武士のさヽやき告けること出きて、三月廿六日に左大臣は左遷せられて、大宰権帥に成てながされければ、やがて出家してけり。僧連茂・中務少輔橘敏延・左近衛大尉源連・前相模介藤千晴など、遠流にみなをこなはれにけりとしるせるは、此すぢに満仲なんどもかたらはれけるにや、武士にてゆかりつヽかはれて、推知してつげ申たりけるにや、かヽること出きにけり。されど天禄三年五月にめしかへされにけり。これをば世の人のさたしけることは、ことに小一条左大臣師尹九条殿の子ども三人、小野宮の子どもヽ、この人にかくはしなしつるぞなどをもへりけるなるべし。それもいかゞはとがなからんをばさはあるべき。さてもわれやがて出家せられにけり。ねぶかくさをもふとも、しふべきことならねば、人もかくさたすなどをもいて、めしかへされにけるなめり。