愚管抄_清盛の帰京
愚管抄_清盛の帰京
この間に、清盛は太宰大弐にてありけるが、熊野詣をしたりける間に、この事どもをばし出してありけるに、清盛はいまだ参りつかで、二たがはの宿と云はたのべの宿なり、それにつきたりけるに、かくりきはしりて、「かヽる事京に出きたり」と告ければ、「こはいかヾせんずる」と思ひわづらひてありけり。子どもには越前守基盛と、十三になる淡路守宗盛と、侍十五人とをぞぐしたりける。これよりたヾつくしざまへや落て、勢つくべきなんど云へども、湯浅の権守と云て宗重と云紀伊国に武者あり。たしかに三十七騎ぞありける。その時はよき勢にて、「たヾおはしませ。京へは入れまいらせなん」と云けり。熊野の湛快はさぶらいの数にはゑなくて、よろひ七領をぞ弓矢まで皆具たのもしくとり出て、さうなくとらせたりけり。又宗重が子の十三なるが紫革の小腹巻のありけるをぞ宗盛にはきせたりける。その子は文覚が一具の上覚と云ひじりにや。代官を立て参もつかで、やがて十二月十七日に京へ入にけり。
すべからく義朝はうつべかりけるを、東国の勢などもいまだつかざりければにや、これをばともかくもさたせでありける程に、大方世の中には三条内大臣公教、その後の八条太政大臣以下、さもある人々、「世はかくてはいかヾせんぞ。信頼・義朝・師仲等が中に、まことしく世をおこなふべき人なし」。主上二条院の外舅にて大納言経宗、ことに鳥羽院もつけまいらせられたりける惟方検非違使別当にてありける、この二人主上にはつきまいらせて、信頼同心のよしにてありけるも、そヽやきつヽやきつヽ、「清盛朝臣ことなくいりて、六波羅の家に有ける」と、とかく議定して、六波羅へ行幸をなさんと議しかためたりけり。
その使は近衛院東宮の時の学士にて、知道と云博士ありけるが子に、尹明とて内の非蔵人ありけり。惟方は知通が壻なりければ一つにて有ける。この尹明さかしき者なりけるを使にはして云かはして、尹明はその比は勅勘にて内裏へもゑまいらぬ程なりければ、中々人もしらでよかりければ、十二月廿五日乙亥丑の時に、六波羅へ行幸をなしてけり。そのやうは、清盛・尹明にこまかにおしへけり。
「ひるより女房の出んずるれうの車とおぼしくて、牛飼ばかりにて下すだれの車をまいらせておき候はん。さて夜さしふけ候はん程に、二条大宮の辺に焼亡をいだし候はヾ、武士どもは何事ぞとてその所へ皆まうで来候なんずらん。その時その御車にて行幸のなり候べきぞ」とやくそくしてけり。