愚管抄_法成寺殿合戦
愚管抄_法成寺殿合戦
かやうにてすぐる程に、この義仲は頼朝を敵に思ひけり。平氏は西海にて京へかへりいらんと思ひたり。この平氏と義仲と云かはして、一になりて関東の頼朝をせめんと云事出きて、つヽやきさヽやきなどしける程に、是も一定もなしなどにてありけるに、院に候北面下臈友康・公友など云者、ひた立に武士を立て、頼朝こそ猶本体とひしと思て、物がらもさこそきこへければ、それををもはへて頼朝が打のぼらんことをまちて、又義仲何ごとかはと思けるにて、法住寺殿院御所を城にしまはしてひしとあふれ、源氏山々寺々の者をもよほして、山の座王明雲参りて、山の悪僧ぐしてひしとかためて候けるに、
義仲は又今は思ひきりて、山田・樋口・楯・根の井と云四人の郎従ありけり、我勢をちなんず、落ぬさきにとや思ひけん、寿永二年十一月十九日に、法住寺殿へ千騎内五百余きなんとぞ云けるほどの勢にてはたとよせてけり。義仲が方に三郎先生と云源氏ありけるも、かく成にければ皆御方へまいりたりけるが、猶義仲に心をあはせて、最勝光院の方をかためたりける山の座主が方にありけるが内より、座主の兵士なにばかりかはあらんを、ひしヽヽと射けるほどに、ほろヽヽと落にけり。散※※に追ちらされて、しかるべき公卿殿上人宮なにか皆武士にとられにけり。殿上人己上の人には美乃守信行と云者ぞ当座にころされにける。そのほかは死去の者は上臈ざまにはさすがになかりけり。さるやうなる武士も皆にげにけり。院の御幸は清浄光院の方へなりたりけり。武士参りてうるはしく六条の木曾が六条のかたはらに信成が家あるにすゑまいらせてけり。当時の六条殿はこれなり。