愚管抄_法勝寺の消失と再建
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愚管抄_法勝寺の消失と再建
さて故摂政のむすめはいよヽヽみなし子に成て、よろづことたがいて、いかにと人も思ひたりけれども、さやうにをぼしめしきざしてありける上に、春日大明神も八幡大菩薩もかく、皇子誕生して世も治まり、又祖父の社稷のみち心にいれたるさまは、一定仏神もあはれにてらさせ給ひけんと、人皆思ひたる方のすえとをる事もあるべければにや、承元三年三月十日、十八にて東宮の御息所にまいられにけり。せうとにて今の左大将、をとなには遥かにまさりて、何ごともてヽの殿にはすぎたりとのみ人思ひたれば、めでたくさたしてまいらせ給にけるなり。
さて又ゆヽしき事の出きたりけり。承元二年五月十五日、法勝寺の九重塔の上に雷をちて火付て焼にけり。あさましきことにてありけり。ほかへはかしこくうつらず。その時院の、「御つヽしみをもし。しるしありなんとをぼえん法まいりてをこなへ」と慈円僧正に仰られたりければ、「法華経をおこない候はん」とて、助衆二十人ぐして、院の御所にて七日はてヽ出たりける後、ほどなくこの塔のやけにけるを、僧正いみじく案じて、
「御所に候しほど修中に焼たらばいかに遺恨ならまし。但この事は一定君の御つヽしみのあるべかりけるが、これに転じぬるよ」と思て、「な歎をぼしめし候そ。これはよき事にて候。たヾしやがていそぎつくらるヽ御沙汰の候べき也。当時やけ候ぬるは御死の転じ候ぬるぞ。
やがてつくられ候なんずれば、御滅罪生善に候べし」と申されたりければ、やがて伊予の国にて公経大納言つくれとて、ほどなくつくり出んとしたくしけるを、
是に伊予ふたげられてよの御大事もかけなん。葉上と云上人その骨あり。唐に久しくすみたりし物也とて、葉上に周防の国をたびて、長房宰相奉行して申さたしたりけり。塔の焼を見て執行章玄法印やがて死にけり。年八十にあまりたりける。人感じけるとかや。さて第七年と云に、建暦三年にくみ出て、御供養とげられにけり。
其時葉上僧正にならんとしいて申て、かねて法印にはなされたりける、僧正に成にけり。院は御後悔ありて、あるまじき事したりとをほせられけり。大師号なんど云さまあしき事さたありけるは、慈円僧正申とヾめてけり。猶僧正には成にけるなり。