愚管抄_歴史の段階
from 愚管抄
愚管抄_歴史の段階
このやうにて世の道理の移り行く事を立てむには、一切の法はただ道理と云ふ二文字が持つなり(道理①②③)。其の外には何もなき也。僻事(ひがこと)の道理なるを、知り分かつことの極(きは)まれる大事にてあるなり。この道理の道を、劫初(ごふしよ)より劫末へ歩み下り、劫末より劫初へ歩み上るなり。これを又大小の国々の初めより終りざまへ下り行くなり。
この道理を立つるに、様々(やうやう)さまざまなるを、心得ぬ人に心得させん料(れう=為)に、少々心得易きやう、書き表はし侍るべし。
一、冥顕(みやうげん)和合して道理を道理にて通す様(やう)は初めなり。これは神武より十三代までか。
目に見えぬ神仏の世界と人間の世界とが和合して、道理がそのまま道理として通っている状態が、先ず初めにある。(神武~成務)
二、冥の道理のゆくゆくと(=すらすらと)移り行くを顕の人はえ心得ぬ道理、これは前後首尾の違(たが)ひ違ひして、善きも善くて【も】通らず、悪ろきも悪ろくて【も】果てぬを人のえ心得ぬなり。これは仲哀より欽明までか。
目に見えない神仏の世界の道理はずんずんと移り変わっているのに、目に見える世界にいる人間にはそれが理解できないという道理が出てくる。ここでは物事の前後・首尾が行き違い食い違ったりしているので、善いことも善いこととして貫徹せず、悪いことも悪いままでは終わらないということを人々は理解できないのである。(仲哀~欽明)
三、顕には道理かなと皆人許してあれど、冥衆(=神仏)の御心には適はぬ道理なり。これは善しと思ひてしつることの必ず後悔のあるなり。その時道理と思ひてする人の、後に思ひ合はせて悟り知る也。これは敏達より後一条院の御堂の関白(=道長)までか。
現世の人間にはこれが道理だと思われ、すべての人がそれを認めているのに、それが目に見えぬ神仏の御心に適わないという道理が次に現れるのである。こうなると人間がこれはいいと思ってしたことが、かならず後悔を招くことになってしまう。はじめはこれは道理に基づいていると思ってした人間が、後になって思い合わせてみると、神仏の御心に適っていないと気付くのである(敏達~後一条。つまり御堂関白道長まで)
四、当時沙汰しぬる間は我も人も善き道理と思ふほどに、智ある人の出で来て、これこそ謂(いは)れ無けれと云ふ時、誠にさありけりと思ひ返す道理なり。これは世の末の人の深くあるべきやうの道理なり。これまた宇治殿(=藤原頼通)より鳥羽院などまでか。
今あることを処理している間は、自分も他人もこれこそ道理にかなっていると思っているものであるが、そこに知恵のある人があらわれて、これはまったく理由のないことだというと、本当にそうであったと反省するという道理がそのつぎにくる。これは末世の人が本当にそうあってほしい姿の基本をなす道理である(宇治殿頼通~鳥羽上皇)
五、初めより其の儀両方に分かれて、ひしひしと論じて揺(ゆ)り行くほどに、さすがに道理は一つこそあれば、其の道理へ言ひ勝ちて行なふ道理なり。これは地体(ぢたい=元々)に道理を知れるにはあらねど、しかるべくて威徳ある人の主人なる時はこれを用ゐる道理也。これは武士の世の方の頼朝までか。
はじめから、あることで議論が二つに分かれ、びしびしと論争して動揺する間に、さすがに道理というものは一つであるから、その一つの道理に向かって議論が勝ち進んでいき、それを実行するという道理が現れる。これはもともと道理を知っているというものではないが、すぐれて威徳のある人物が主人である場合は、この方法を用いて事を行うのが道理にかなっている。(武士の世界でいえば頼朝まで)
六、かくのごとく分別しがたくて、とかくあるいは論じあるいは未定にて過ぐるほどに、ついに一方(いつぱう)に就きて行なふ時、悪ろき心の引く方にて、無道を道理と悪しくはからひて、僻事(ひがごと)になるが道理なる道理なり。これはすべて世の移り行くさまの僻事が道理にて、悪ろき寸法の世々落ち下る時々の道理なり。これ又後白河よりこの院の御位(くらゐ)までか。
さて、こうして道理というものを分別することができなくなり、あれこれと論じたり、結論が出ないままで過ぎていくうちに、ついに一つの考えにしたがって事を処理すると、悪い心の誘う方向に流され、道理に反することを道理にしようと悪い企てをするようになり、間違った道をたどるようになるのが道理だという道理が現れる。これは世が移り変わっていく有様が、間違った方向へと進む場合にすべてあらわれる道理で、悪い形勢が時代とともにさらに下落していく過程の道理なのである(後白河上皇~現在の後鳥羽上皇が皇位についていたとき)
七、すべて初めより思ひ企つる所、道理と云ふ物をつやつや我も人も知らぬ間に、ただ当たるに従ひて後をかへりみず、腹に寸白(すばく=寄生虫)など病む人の、当時<病の>起こらぬとき喉(のど)の渇(かは)けばとて水などを飲みてしばしあれば、その病<の>起こりて死に行くにも及ぶ道理也。これはこの世(=今の世)の道理なり。されば今は道理<と>云ふ物は無き(道理①正しい道)にや。
ものみなすべて、はじめに考え企てたことが、自分も人も道理というものを少しも知らないためにただ成り行き任せになってしまい、先のことなど考えてみようともしないような状態、例えば海中の病気が重くなった人が、今は自覚症状がないので喉が渇くからと言って水を飲んだりすれば、やがて病気が重くなって死に至るのと同じ道理なのである。そしてこれが今の世の道理である。そうだとすると、今はもう道理というものはなくなってしまったのであろうか。