愚管抄_武者の世
from 愚管抄
愚管抄_武者の世
さて大治のゝち久寿までは、又鳥羽院、白河院の御あとに世をしろしめして、保元元年七月二日、鳥羽院うせさせ給て後、日本国の乱逆と云ことはをこりて後むさの世になりにけるなり。
この次第のことはりを、これはせんに思てかきをき侍なり。城外の乱逆合戦はをほかり。日本国は大友王子、安康天王なんどの世のことは、日記もなにも人さたせず。大宝以後といヽてそのヽちのこと、又この平の京になりてのヽちをこそさたすることにてあるに、天慶に朱雀院の将門が合戦も、頼義が貞任をせむる十二年のたヽかいなどいふも、又隆家の帥のとういこくうちしたがふるも、関東・鎮西にこそきこゆれ。まさしく王・臣みやこの内にてかヽる乱は鳥羽院の御ときまではなし。かたじけなくあはれなることなり。
この事のをこりは、後三条院の宇治殿を心ゑずをぼしめしけるよりねはさしそめたるなり。されどそれは王・臣ともにはなれたることはなし。めでたく上も下もはからいこヽろゑてこそをはしませ。
それに白河院の、鳥羽院位のはじめに、きさきだちあるべきに、知足院どのヽむすめをまいらせよとをほせありけるを、かたくじヽてまいらせられざりけり。人これを心ゑずをもいけり。これをすいするに、鳥羽の院は、をさなくをはしましけるとき、ひあいなる事などもありて、たきぐちが顔に小弓の矢いたてなどせさせ給と人をもへりけるを、(お)それ給けるにやどぞ人は申ぬる。又公実のむすめを御子にしてもたせ給ひたりけるをば、法性寺殿にむことらんとをぼしめして、すでにそのさたありけるほどに、日次などゑらばるヽにをよびたりけるが、しかるべくてさはりをほくいでき+ して、いまだとげられざりけるほどに、知足院殿の、むすめをゑまいらせじと申されけるに、あだに御腹だちて待賢門院をば法性寺殿の儀をあらためて、やがて入内ありけるとぞ。
とばの院はあやにくにをとなしくならせをはしましては、ことにめでたき御心ばへの君にをひなりてこそはをはしましけれ。さて白河院はかの公実のむすめをとりて御子にしてもたせ給りけるを、鳥羽院に入内立后してをはします。待賢門院と申これなり。その御腹に王子いくらともなし。はじめは崇徳院、次二人はなゑみや、目みやとて、をひもたヽでうせさせ給ぬ。さて崇徳院くらいにつきてをわしましけり。四宮、五宮みな待賢門院の御はらなり。
さて白河院の御時、御くまのもうでといふことはじまりて、たびヽヽまいらせをはしましけるに、いづれのたびにか、信をいだして宝前にをはしましけるに、宝殿のみすの下よりめでたき手をさしいだして、二三どばかりうちかへし+ してひき入にけり。ゆめなんどにこそかヽることはあれ。あざやかにうつヽに、かヽる事を御らんじたりけるを、あやしみをぼしめして、みこどもをほかりけるに、何となくものをとはれければ、さらにさらにげにヽヽしき事なし。それによかのいたとて、くまのヽかうなぎの中にきこへたる物ありけり。みまさかの国のものとぞ申ける。それが七歳にて候けるに、はたと御神つかせ給たりける。世のすゑには手のうらをかへすやうにのみあらんずることを、みせまいらせつるぞかしと申たりけるが、かヽるふしぎをも御らんと御覧じたりける君なり。
それに保安元年十月に御くまのまうでありけるとき、その間に鳥羽院御在位のすゑつかたに、関白にてをはしける智足院殿のむすめを、なを入内あれとうちの御心よりをこりてをほせられけるを、うちヽヽによろこびていでたヽせ給ひけることいできたりけるを、くまのへあしざまき人申たりけるに、はたと御はらを立て、わがまいらせよと云しには方をふりてじヽて、われにしらせでかくするとをぼしめしてけり。さて御帰洛のすなはち、知足院どの当時関白なるをはたと勅勘ありて、十一月十三日に内覧とヾめて閉門せられにけり。