愚管抄_東大寺・東寺・興福寺の復興
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愚管抄_東大寺・東寺・興福寺の復興
その始に、播磨国・備前国は院分にてありしを、上人(二人)にたびて、
「成もまり候はぬ東大寺いそぎ造営候べし。東寺は弘法大師の御建立、鎮護国家無左右候、寺もなきがごとくに成り候をつくられ候べし。其にすぎたる御追善やは候べき」とて、東寺の文学房、東大寺の俊乗坊とに、播磨は文学、備前は俊に給はせてけり。
東大寺にはもとより周防国はつきてありければと、事もなりやらずとて、くはへ給はるヽ也。
文学はそのかみ同じ国にながされてありける時、あさ夕にゆきあいて、仏法を信ずべきやう、王法をおもくまもりたてまつるべきやうなど云聞せけり。かくてはつべき世中にもあらず、うち出る事もあらばなど、あらましごともやくそくしけるが、はたして思ふまヽに叶ひにければ、高雄寺をも東寺をもなのめならず興隆しけり。文学は行はあれど学はなき上人なり。あさましく人をのり悪口の者にて、人にいはれけり。天狗をまつるなどのみ人に云けり。されど誠の心にかヽりければにや、はりまをも七年までしりつヽ、かくこうりうしけるにこそ。
さて九条殿は摂籙本意にかないて、物もなかりし興福寺南円堂の御本尊不空羂索等丈六仏像・大伽藍、東大寺と、はなをならべてつくられけり。同五年九月廿二日興福寺供養也。甚雨なりけり。前の日殿は春日詣せられけり。中納言巳下騎馬ときこへき。御堂御時よりはじまれる例にや。あまりなる事なりと人思けり。
同六年三月十三日東大寺供養、行幸、七条院御幸ありけり。大風大雨なりけり。この東大寺供養にあはむとて、頼朝将軍は三月四日又京上してありけり。供養の日東大寺にまいりて、武士等うちまきてありける。大雨にてありけるに、武士等はれは雨にぬるヽとだに思はぬけしきにて、ひしとして居かたまりたりけるこそ、中々物みしれらん人のためにはをどろかしき程の事なりけれ。
内裏にて又たびヽヽ殿下見参しつヽありけり。このたびは万をぼつかなくやありけむ、六月廿五日ほどなくくだりにけり。