愚管抄_末の世の姿
愚管抄_末の世の姿
聖徳太子の十七条の中に、「嫉妬をやめよ、嫉妬の思ひはその際(きは)なし。賢こく愚かなる事は、又環(たまき)の端無きが如し。我一人<心>得たりとな思ひそ」といましめて、「宝あるもの、憂へ(=訴訟)は易々と通るなり。石を水に投げ入るるやう也。貧しき者の憂へは難くて通る事なし。水にて岩を打つやう也」と仰られたる。
この三事の詮にては侍るを、世の末ざま、当時の世間にはさる戒(いまし)めのあるかとだにも思はで、わざとこれを目出度き事に思ひて、すこしも魂(たましい=分別)あらんと思ひ(=自認し)たる人は、物妬みと自是非他(=自分に甘く他人に厳しい態度)と追従・賄(まいない)とにて、これがひとへに(=こんなことだけで)世を保(<た>も)たんには難(なん=災難)の候はんぞな。あざやかあざやか(=明々白々)と侍るものかな。
治(をさ)まれる世には「官、人を求む」、乱れたる世には「人、官を求む」と。この頃の十人大納言、三位五六十人、故院の御時までも十人が内外(=前後)にてこそ侍りしか。靫負(ゆげい)の尉(ぜう)・検非違使は数も定まらず。一度の除目を見れば、靭負の尉・兵衛の尉四十人に劣るたびなし。千人にもなりぬらん。
人、官をもとめて、贖労(そくらう=買官)・脇差(わきざし)をたづねて願ふ者は、近臣恪勤(かくご=側近)の男女にてあらんには左右に及ばぬ(=ためらはない)ことぞかし。さまでは(=これほどひどい状況は)思ひ寄らず。
まことには、末代悪世、武士が世になりはて、末法(=1052年)にも入りにたれば、ただ塵(ちり)ばかりこの道理どもを君も思し召し出でて、こはいかにと驚き覚(さ)めさせ給ひて、さのみは如何にこの邪魔悪霊の手にも入るべきと思し召し、近臣の男女もいささか驚けかしとのみこそ念願せられ侍れ。
又武士将軍を失ひて、我身には恐ろしき物もなくて、地頭々々とてみな日本国の所当(=年貢)取り持ちたり。院の御事をば、近臣の脇、地頭の得分(=収益)にて、こそぐれば笑まずと云ふ事なし。武士なれば、当時心に叶はぬ物をば俺々とにらみつれば、手向かひする者なし。ただ心に任せてんと、ひしと案じたり(=心に決めた)と今は見ゆめり。
さてこれらの僻事の積もりて大乱になりて、この世(=今の世)は我も人も滅び果てなんずらん。大の三災(=水火兵)はまだしき物を、さすがに仏法の行ひも残りたり。宗廟社稷の神もきらきらとあんめり。ただいささかの正意とり出だして、無顕無道の事少しなのめ(=普通)になりて、さすがにこれを弁(わきま)へたる人、僧俗の中に二三人四五人などはあるらん物を、これを召し出だして、天下に仕(つか)へられよかし。
事の詮には、人の一切智具足してまことの賢人・聖人はかなふまじ。少しも分々に(=分に応じて)主(ぬし)とならん人は、国王より初めまいらせて、人の善し悪しを見知りて召し使いおはします御心一つが、やすかるべき事の詮になる事にて侍るなり。それがわざとするやうに、何事にも、さながら烏を鵜に使はるることにて侍るめれば、つやつやと世の失せ侍りぬるぞとよ。