愚管抄_最澄と空海
from 愚管抄
最澄と空海
後に位につくべき人なくて、やうヽヽに群臣はからひける中に、房前・宇合の子たちにて永手・百川とてぬきいでたる人々有て、天智天皇の御むまごにて施基の皇子の御子にて王大納言とておはしけるを、位にはつけたてまつりたりける。光仁天皇と申は是也。先帝高野天皇詔曰、宜以大納言白壁王立皇太子云々。是は百川はかる処也。則位につきて十二年たもちて、其御子にて桓武天皇は東宮にて位ひきうつして、
此平安城たいらの京へ初て都うつり有て、此桓武の御後、この京の後は、女帝もおはしまさず、又むまごの位と云事もなし。つヾきヽ してあにをとヽつがせ給つヽ国母は又みな大織冠のながれの大臣どもの女めにて、ひしと国おさまり、民あつくてめでたかりけり。今日までもそのまヽはたがはぬをもむき也。
是は此御時延暦年中に、伝教・弘法と申両大師、唐にわたりて天台宗と云、無二無三、一代教主尺迦如来の出世の御本懐の至極無双の教門、真言宗とて又一切真俗二諦をさながら一宗にこめたる三世諸仏の己証の真言宗とをば、この二人大師わたし給て、両人潅頂道場をおこし、天台宗菩薩戒をひろめ、後七日法を真言院とて大内に立てはじめなどせられたる、しるしにて偏に侍也。つヾきて慈覚大師、智証大師、又々わたりて熾盛光法、尊星王法などををこないて君守り、国をおさまりて侍也。