愚管抄_時平と道真
from 愚管抄
時平と道真
さて寛平は位につかせおはしましけるはじめより、「我身は無下に聖主の器量にあらず」とて、「とくおりなん」とつねに昭宣公におほせあはせけるを、「いかでかさる事候ん」とのみ申されければ、「さらば一向に世のまつりことをしてたべ」とうちまかせておはしましける程に、
十年たもちおはしましける第六年かに、昭宣公うせ給にければ、その太郎の時平と菅丞相とを内覧の臣にさだめられて、遺誡かゝせ給て三十一にておりさせ給て、延喜の御門は醍醐天皇と申に御譲位ありければ、十三にていまだ御元服もなかりけるを、今日只元服をして位につかんとて、にはかに御元服ありて摂政をもちゐられず、寛平の御遺誡のまヽに時平と天神とに、まつりことをおほせあはせてありけるほどに、
十七の御歳、延喜元年に北野の御事はいできにけり。その事は、御門どゆヽしきわが御ひが事、大事をしいだしたりとやおぼしめしけん、すべて北野の御事、諸家、官外記の日記をみなやけとて、被焼にければ、たしかにこの事をしれる人なし。されども少々まじりてみゆる処もあり。又かうほどのことあれば、人の口伝にいひつたへつたへしたることにてあれば、事のせんはみなみえるにや。
権者たちのむまれて、かヽることはありけるにや。されどこと人を権者と云ことはなし。天神はうたがひなき観音の化現にて、末代ざまの王法をまぢかくまもらんとおぼしめして、かヽることはありけりとあらはに知る事也。時平の讒言と云事は一定也。浄蔵法師伝にも見たり。さりながら八年まではゑとらせ給ざりけるにや。天神の霊の時平につかせ給たりけるを、浄蔵が加持して、したヽかにせめければ、仏法威験にかちがたくて、浄蔵が父の善宰相清行存日なりければ、善相公に汝が子の僧よびのけよとねんごろに託宣しておほせられければ、浄蔵もをそれてさりにける後、つゐに時平うせ給にけるとこそみえて侍めれ。この御心ならば、すべて内覧臣、摂籙の家は、天神の御かたきにてうしなはるべきにてこそあるに、やがて時平の弟の貞信公、家を伝へ、内覧摂政あやにくに繁昌して、子孫たふることなく、
いまヽでめでたくてすぎらるヽことをふかく案ずるには、日本国小国也、内覧の臣二人ならびては一定あしかるべし、その中に太神宮鹿島の御一諾は、すゑまでたがふべきことにあらず、大織冠の御あとをふかくまもらんとて、時平の讒口にわざといりて御身をうしなひて、しかも摂籙の家をまもらせ給なり。あざヽヽとは、時平こそかく心もあしけれ、貞信公は弟にて、菅丞相のつくしへおはしましけるにも、うちヽヽに貞信公は御音信有りて、申かよはしなどせらるれば、それをばいかヾはあたみ思はんと云をもむき也。
これもすなはちことの真実をこそいへ。賢が子、賢ならずとこそ云へ。おほかたの内覧臣、摂籙の家をかたきにとらんことは世間の愚者の法也。真実をこそとおぼしめす、すぢのとをさるヽ事を、かくともまめやかに心得人なし。これらを返々まことの道理にいれて、かく心得べきなり。
さればまぢかくこの大内の北野に、一夜松おひてわたらせ給て、行幸なる神とならせ給て人の無実をたヾさせおはします。ことに摂籙の臣のふかくうやまひ、ふかく頼みまいらせらるべき神とこそあらはには心得侍れ。かやうの方便教門の化導ならで、ひとえに劫初劫末のまヽにては、南州衆生の果報の勝劣も、寿命長短も、かくてこそ敬神帰仏縁ふかくして、出離成仏の果位には至るべけれども、かやうのさかひに入て心うる日は、一々にそのふし※※はたがふことなし。