愚管抄_時代変動のきざし
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愚管抄_時代変動のきざし
大方この一条院の御時、世の中の一つぎめにて、一蔀の運いかにもいかにもあるべかりけるにや。寛和二年七にて御位の後、次年号永延三年六月下旬に、彗星東西の天にみへけるより、八月に改元、永祚の風さらにをよばぬ天災なり。一年にて次の年正暦にかはりて、山門に智証・慈覚門人大事いできて、智証門徒千光院みなはらいはてたり。正暦五年、長徳元年つゞきて、大疫癘をこりて都鄙の人をほく死にけり。中にも長徳元年に八人まで人のうせたる事、むかしも今もなき事なれば尤あざやかにしるし侍るべし。
大納言朝光前左大将。三月廿八日、年四十五にてうせけるより、
関白道隆四月十日、四十三。
大納言左大将済時同廿三日、五十五。
関白右大臣道兼右大将、五月八日、卅四、末避大将云云。
左大臣源重信同日、七十四。
中納言保光同日、七十三、もヽそのヽ中納言、中務の代明親王子なり。
大納言道頼六月十一日、(廿)、道隆関白二男也。山井大納言と云。 中納言右衛門督源伊渉十一月(日)、五十九。
年の内にかくうせにけり。さて次に長保とかはる。又寛弘とこの長保に、上東門院入内之後、寛弘に最勝講などはじめをかれて後、御堂又まじり物もなく世ををさめ給て、世はひしと落居にけるとみゆ。
この八人うせたる人は、皆時にとりてよくもなかりける人にこそ。しげのぶ公などは七十にをほくあまりにければ、沙汰にをよばず。中関白はあさみつ・なりときの二人左右大将と、あけくれ酒もりよりほかのこともなくてすぎられけり。僧の極楽浄士のめでたき由ときけるを聞て、極楽いみじくとも、朝光・済時はよもあらじ。これなくはつれ※※なりなんといはれけるなどこそはかたりつたへたれ。
大方彗星と云変は、世のよくならんずるゆへによくならんとてをこる災のかならずあるを、あらはす変にやとぞ心ゑられ侍る。天変も何も智恵ふかヽらん人よく案じ思ひあはすべき事にて侍るなり。かやうの物語の、しかも人の利口、そら事ならぬは、をりヽヽにいくらともなし。四納言がこへあいけるやうなんども、よき物語どもなれど、さのみはかきつくしがたし。又用じもなき事なり。たゞ事のふし※※にまめやかになりて、このまこと共を聞ては、この上のさとりをひらく縁となりぬべき事どもを、かきつけはべるなり。