愚管抄_昭宣公基経
from 愚管抄
昭宣公基経
さて清和は、十八年たもちて、廿六にて又太子の陽成院の九歳の御年御譲位有て、廿九にて御出家有りて、三十一にてうせさせ給にけり。この陽成院、九歳にて位につきて八年十六までのあひだ、昔の武烈天皇のごとくなのめならずあさましくおはしましければ、おぢにて昭宣公基経は摂政にて諸卿群儀有て、「是は御ものヽけのかくあれておはしませば、いかヾ国主とて国をもおさめおはしますべき」とてなん、をろしまいらせんとてやうヽヽに沙汰有りけるに、仁明の御子にて時康親王とて式部卿宮にておはしましけるをむかへとりて、位につけまいらせられにけり。これは光孝天皇と申也。五十五にて位につかせ給て、三年ありて五十八にてうせさせ給けり。
さてその御子にて宇多天皇と申寛平法皇は、廿一にて位につきておはしましける。此小松の御門、御病をもりてうせさせ給けるには、御子あまたおはしましけれども、位をつがせんことをばさだかにもえおほせられず、いま我かくきみとあふがるヽことも、このおとヾのしわざなれば、又いまはからひ申てんとおぼしめしけるにや、御病のむしろに昭宣公まいり給て、「位はたれにか御譲り候べき」と申されけるに、「その事也、唯御はからひにこそ」と仰られければ、寛平は王の侍従とて、第三の御子にておはしましけるを、「それにておはしますべく候、よき君にておはしますべき」よし申されければ、かぎりなくよろこばせ給て、やがてよびまいらせてそのよし申させ給けり。寛平の御記には、左の手にては公が手をとり、右の手にては朕が手をとらへさせ給て、なくヽヽ「公が恩まことにふかし、よくヽヽ是をしらせ給へ」と申をかれけるよしこそかヽせ給たんなれ。中々かやうのことは、かく其御記をみぬ人までもれきく事のかたはしをかきつけたるを、まさしく御記をみん人もみあはせたらば、わが物になりてあはれに侍なり。