愚管抄_摂関の権威の下落
愚管抄_摂関の権威の下落
延喜・天暦までは君臣合体魚水の儀まことに目出度しと見ゆ。北野の御事もせめて時平と御心違(たが)はぬ方の印(しるし)なるべし。
冷泉院の御後、ひしと天下は執政臣に付きたりと見ゆ。それにとりて御堂までは摂籙の御心の、時の君を思ひあなづり参らする心のさわさわと(=全く)なくて、君の悪しくおはします事をば目出度く申し直し申し直しておはしますを、君の悪しく御心得て、円融・一条院などより「我をあなづるか、世を我が心にまかせぬこそ」など思し召しけるは、みな君の御僻事(ひがこと)と見ゆ。
宇治殿の、後冷泉院の御時、世をひしと取らせ給ひし後に、すこしは君をあなづり参らせて、世を我が世に思はれける方の混じりにけるよ、など見ゆ。後三条院これをさ(=そのやうに)御覧じて、この事(=頼通の専横)あれと思し召して、「今はただ脱屣の後われ世を知らん」と思し召してけり。されどこの宇治と後三条院とはさは思し召せども、悪しかりけり悪しかりけりと皆(=二人)思ひ直し思ひ直して、王道へ落とし据ゑて世の政(まつりこと)は止みやみ(=決着)しけるよ、など見ゆ。
白河院の後、ひしと太上天皇の御心のほかに、臣下(=摂籙臣)といふ者の詮(せん)に立つ事のなくて、別に近臣とて白河院には初めは俊明等も候。末には顕隆・顕頼など云ふ者ども出で来て、本体(=本来)の摂籙臣、痴(をこ)の下様(しもざま)の人(=師通、忠実、頼長)のおはしけるに、又かなしう押されて恐れ憚りながら、又昔の末はさすがに強くのこりて、鳥羽、後白河の初め法性寺殿(=忠通)まではありけりと見ゆ。
この中に白河院の、知足院殿(=忠実)をひしと仲悪しくもてなして追ひ籠めて、その知足院の子法性寺殿を別に取り放つやうに使ひ立てさせ給ひたる御僻事の、ひしと世をば失ひつるにて侍るなり。これにつけて定かに冥顕の二つの道、邪神善神の御違へ(=争ひ)、色に表はれ内に籠りて見ゆるなり。
されども鳥羽院は最後ざまに思し召し知りけん、物を法性寺殿に申し合はせて、その申さるるままにて、後白河院位に即けまいらせて、立ち直りぬべきところに、かやうに(=乱世に)成り行くは世の直るまじければ、すなはち天下日本国の運の尽き果てて、大乱の出で来て、ひしと武者の世になりにし也。
その後、摂籙の臣と云ふ物の、世の中にとりて、三四番に下りたる威勢にて、きらもなく成りにしなり。其の後わづかに松殿・九条殿この二人、いささか一の人に似たる事どもあれど、かく成りぬる上の情けにてこそあれ。松殿は平家に失なはれ、九条殿は源将軍に取り出だされたる人にて、国王の御<意>にまかせて、摂籙臣を我が物に頼みもし憎みもする筋の、こそこそと(=いつの間にか)失せぬる上は、善きも悪しきもをかしき事にて今は止みぬるに、ただ暫しこの院(=後白河)の後、(=後鳥羽院が)京極殿良経を摂籙になされたりしこそ、こは目出度き事かなと見えしほどに、夢のやうにて頓死せられにき。
近衛殿と云ふ父子(=基通、家実)の、家には生まれて、職には居ながら、つやつやと掻い払ひて、世の様(やう)をも家の習ひをも、すべて知らず、聞かず、見ず、習はぬ人にて、しかも家領文書抱(かか)へて、かく取られぬ、返されぬして、いまだ失せず死なでおはするにて、ひしと世は王臣の道は失せ果てぬるにて侍るよと、さはさはと見ゆる也。それに、王も臣も間近(まぢか)き九条殿の世の事を、思はれたりし。力の正道なる方は、宗廟社稷の本なれば、それが通るべきにや。