愚管抄_摂政関白のあり方
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摂政関白のあり方
さてこの九条右丞相師輔の公の家に摂録の臣のつきにける事は、小野宮殿うせ給て、九条殿の嫡子一条摂政伊尹摂政になり、又これは円融院の外舅にて右大臣にて有れば、九条殿は摂籙せざりしかば、なにとてかたをならぶべきものなくて、かくは侍なり。
地体は藤氏長者といふことは、上よりなさるヽことなし。家の一なる人に次第に朱器台盤・印などをわたし+ することなり。その人又おなじく内覧の臣とはなる也。関白摂政と云ことは、必しもたえずなることにはあらず。摂政は幼主の時ばかりなり。忠仁公の後は、たヾ藤氏長者内覧の臣になりぬるを一の人とは申なり。内覧もかならずしもなきこと也。関白は昭宣公摂政の後に関白の詔ははじまりけり。漢の宣帝の時、霍光がまづあづかりきかしめてのちに奏せよと、うけたまはりける例なるべし。小野宮殿の摂政をへずして関白詔はじまりけるをば、をそれ申されけり。されば延喜の御時、時平うせ給てのちと、天暦の御時には内覧臣だになし。まして摂政関白と云つかさもなされず、唯藤氏長者、一のかみにて、延喜の御時は貞信公、後にこそ朱雀院八にて御位なれば摂政にならせ給へ。村上にははじめは貞信公関白如元とて有りけれど、うせさせ給て後は、左大臣にて小野宮殿こそはたヾ一の上にて事をこなひて、冷泉院御時、直関白の詔有りけり。
時の君の御器量がらにて、かつはをかるヽこと也。よのすゑは、みな君も昔にはにさせ給ず、まことの聖主はありがたければ、いまは様の事と摂政関白の名はたふることなし。それも御堂のはじめ、一条院、三条院、知足院殿のはじめ、堀川院、このふたヽびは内覧ばかりにて、関白にはならせ給ざりけり。やさしきこと也。
貞信公の御事は、いかにもいかにもたヾうちある人にはおはせず。将門が謀反の時、禁中に仁王会ありける。ことをこなひ給けるに、こえばかりにてをこなひ給て、身は人にみえ給はざりけり。隠形の法など成就したる人は、かくやと覚けるは、たしかにいひつたえたること也。
又小野宮どのヽうせられたりける時、とぶらひのため門に人おほくきたりあつまりたりけるが、昔は徳有る人のうせたるには、挙哀といひて、あつまれる人、声をあげて哀傷することありけれど、今はさる人もなきに、この時門外にあつまれる貴賎上下、挙哀の声をのづからいできてかなしみけるこそ、天下になげくべきこときはまりにけりと人は申けれ。かやうのことをば思しるべきこと也。