愚管抄_摂政良経の死
愚管抄_摂政良経の死
殿はまちざいはいおぼつかなく、当時はうら山しくもやおぼしけん。人目はよくとして、さられたるもよしにてすぎけるほどに、中御門京極にいづくにもまさりたるやうなる家つくりたてヽ山水池水峨々たる事にてめでたくして、元久三年三月十三日とかやに、絶たる曲水の宴をこなはんとて、鸚鵡坏つくらせなどして、いみじくよの人もまち悦て、松殿のむすめを北政所にせられたり、摂籙のやがて摂籙のむこになるもありがたき事にてありければ、さきの入道殿下を二人ながらをやしうとにてもたれたれば、公事のみち職者の方きはめたる人の、昔にすぎたる詠歌の道をきはめて、この宴をおこさるヽしかるべしと人も思ひつヽ、心をとき目耳をたてつヽありける程に、三月七日やうもなくね死にせられにけり。天下のをどろき云ばかりなし。院かぎりな(くな)げきおぼしめしけれど云にかいなし。さてちからをよばでこのたびは近衛殿の子、当時左大臣にてもとよりあれば関白になられにけり。
この春三星合とて大事なる天変のありける。司天の輩大にをぢ申けるに、その間慈円僧正五辻と云てしばしありける御所にて、とりつくろいたる薬師の御修法をはじめられたりける修中にこの変はありけり。太白・木星・火星となり、西の方によひヽヽにすでに犯分に三合のよりあいたりけるに、雨ふりて消にけり。又はれてみゑけるに、みへてはやがて雨ふりてきゑヽ四五日して、しばしはれざりければ、めでたきことかなにてありける程に、その雨はれてなを犯分のかぬ程にて現じたりけるを、さて第三日に又くもりて朝より夜に入るまで雨をおしみてありけり。いかばかり僧正も祈念しけんに、夜に入て雨しめ※※とめでたくふりて、つとめて、「消え候ぬ」と奏してけり。その雨はれて後は、犯分とをくさりて、この大事変ついに消えにけり。さてほどなくこの殿の頓死せられにけるをば、
晴光と云天文博士は、「一定この三星合は君の御大事にて候つるが、ついにからかいて消候にしが、殿下にとりかへまいらせられにけるに」とこそたしかに申けれ。このをりふしにさしあはせ、怨霊もちからをえけんとおぼゆるになん。その御修法はことに叡感ありて、勧賞などおこなはれにけり。さていかさまにもこの殿下のしなれたることは、世の末の口をしさ、かヽる人をえもたふまじき時運かなしきかなと人思へりけり。大方故内大臣良通、この摂政、かヽる死どもせられぬる事は、猶法性寺殿のすゑにかヽりけることの人のいでくるを、知足院殿の悪霊のしつるぞとこそは人は思へりけれ。法性寺殿よりこの摂政まで七人に成りぬるにこそ。其霊の後世菩提まめやかにたすけとぶらふ心したる人だにあらば、今はかうほどの事はよもあらじかし。あはれことの道理まことしく思ひたる臣下だにも二三人世の中にあらば、すこしはたのもしかりなんものを。
かヽりける程に、院にはもとよりうせたる摂政の事ふかくしのびをぼしめしければ、家実摂政になりて左大将あきけるところに、中納言中将道家をば左大将になされにけり。建永元年六月廿六日也。摂政関白程の人の名、かくはばからずをさへてかきヽヽしたる事は、わざとあざやかならんれうにかきて侍なり。