愚管抄_摂政出現
from 愚管抄
摂政出現
さて文徳の王子にて清和いでき給。このとき山の恵亮和上は、御いのりしてなづきを護摩の火にいれたりなど申伝たり。一歳にて東宮にたヽせ給けり。九歳にて位につかせ給ければ、幼主の摂政は日本国にはいまだなければ漢家の成王の御時の周公旦の例をもちゐて、母后の父にて忠仁公良房をはじめて摂政にをかれけり。是後摂政関白といふことはいできたるなり。それもはじめはたヾ内覧臣にをかれて、まことしく摂政の詔くださるヽことは、七年をへて後、貞観八年八月十九日にてありけるとぞ日記には侍なる。
この御時伴大納言善男、応天門やきて信の大臣に仰て、すでにながされんとしけること、そのあひだには良相と申右大臣は良房のをとヽにて、いりこもられて後天下のまつりこと良相にうちまかせてありけるに、天皇伴大納言が申ことをまことヽおぼしめして、かうヽヽとおほせられけるをうたがひおもはで、ゆヽしき失錯せられたりけり。それをば昭宣公蔵人頭にてきヽおどろきて、白川殿へはせまいりつげ申てこそ善男がことはあらはれにけれ。これらは人皆しりたればこまかにはしるさず。