愚管抄_怨霊と道理
愚管抄_怨霊と道理
いま左大臣の子(=頼経)を武士の大将軍に、一定八幡大菩薩のなさせ給ひぬ。人のする事にあらず、一定神々のし出ださせ給ひぬるよと見ゆる。不可思議の事の出で来侍りぬる也。
これを近衛殿など云ふ、沙汰のほかの者は、「我が家にかかることなし。恥かかるるか」言はるるを、誠になど思ふ人もあるとかや。をかしき事とは、ただこれらなり。我が身うるはしく家を継ぎたる人にてこそ、さやうの事は愚かながらも言ふべけれ。平将軍が乱世に成り定まる謀反の詮に、二位中将(=の位)より、つやつや物も知らぬ人の若々愚かおろかとしたるに、摂籙の臣の名ばかり授(さづ)けられて、怨霊にわざと守られて、我が家失なはん料(れう)に久しく生きたるぞと、え思ひ知らぬ程の身にして、「家の恥也」など言はばや、大菩薩の御心に適ふべき。「言ふに足らず」と云ふはこれなり。
すこしは、世の移り物の道理の変はり行くやうは、人これを弁(わきま)へがたければ、その料(れう)にこれは書き付け侍れど、これを見む人も我が心に入れ心に入れせんずれ(=せんざれ)ば、さらにかなふまじ。こはいかがし侍るべき。
されば摂籙家と武士家とを一つになして、文武兼行して世を守り、君を後見(うしろみ)参らすべきに成りぬるかと見ゆるなり。これにつきて昔を思ひ出で今を顧(かへり)みて、正意(しやうい=正しい意味)に落とし据ゑて、邪を捨て正に帰する道をひしと心得べきにあひ成りて侍るぞかし。先づこれにつきて、是は一定大菩薩の御計らひか、天狗・地狗(ぢく)の又仕業かと深く疑ふべし。
この疑ひにつきて、昔より怨霊と云ふ物の世を失ひ人を滅ぼす道理の一つ侍るを、先づ仏神に祈らるべきなり。
百川の宰相いみじく光仁を立て申ししと、又その後の王子立太子論ぜしに、桓武をば立て果(おほ)せ参らせたれど、あまりに沙汰(=策略)し過ごして、井上(いのかみ)の内親王(=廃皇太子の母)を穴を彫(ゑ)りて獄を作りて籠め参らせなんどせしかば、現身(げんしん)に竜に成りて、ついに蹴殺させ給ふと云ふめり。
一条摂政(=藤原伊尹)は朝成(あさひら)の中納言を生霊(いきすだま)に儲(まう=身に受)けて、義孝(のりたか)の少将まで失せぬと云ふめり。
一条摂政(=藤原伊尹)は朝成(あさひら)の中納言を生霊(いきすだま)に儲(まう=身に受)けて、義孝(のりたか)の少将まで失せぬと云ふめり。
朝成(あさひら)は定方(さだかた)右大臣の子也。宰相の時は一条摂政は下臈にて競望の間、放言(=悪口)し申したりけり。大納言所望の時は摂籙臣(=伊尹)になられたるに参りて、昔は左右(さう)なく上へ登る事もなかりけるに、良(やや)久しく庭に立ちて、たまたま(=やつと)呼び入れて会はれたるに、大納言には我(=朝成)がなるべき道理を立てけるをうち聞きて、「往年、納言のときは放言せられき。今は貴閣の昇進我が心に任せたり。世間は計り難き事ぞ」と云ひて、やがて内へ入られにければ、なのめならず腹立て出でける。車にまづ笏を投げ入れける二つに割れにけり。さて生霊となれり、とこそ江帥(がうのそち=大江匡房)も語りけれ。三条東洞院は朝<成>【平】が家の跡なり。それへは一条摂政の子孫は臨まずなど申すめり。
元方の大納言は天暦(=村上天皇)の第一皇子広平親王の外祖にて、冷泉院(=村上第二皇子が即位)を取り詰め参らせたり。顕光大臣は御堂の霊になれり(=第4巻)。小一条院(=敦明親王)<の>御舅(しうと)なりし故など、かやうに申す也。されども仏法と云ふものの盛りにて、智行の僧多かれば、かやうの事は祟(たた)れども、事のほかなる事をば防ぐめり。まめやかに<心>底より尊(たうと)き僧を頼みて、三宝の益をば得る也。九条殿は慈恵大師、御堂は三昧和尚・無動寺座主、宇治殿は滋賀僧正など、かやうに聞こゆめり。
深く世を見るには、讚岐院、知足院殿の霊の沙汰(=対策)のなくて、ただ我が家を失なはんと云ふ事にて、法性寺殿は子ながら余りに器量の、手掛(が)くべくもなければにや、我が御身にはあながちの(=ひどい)事もなし。中の殿の疾く失せざま、松殿・九条殿の事に合はれやう、近衛(このい)殿(=基通)のたびたび取られ給ひて、今まで命を生(い)けて遊びてこの家を失(うしな)はれぬる事と、後白河一代明け暮れ事に遭はせ給ふことなどは、験(あらた)に(=明らかに)この怨霊も何もただ道理を得る方の応(こた)ふる事にて侍るなり(道理③因果の道理)。
一(ひ)と当たりはただ易々とある事の、一大事にはなる也。讃岐より呼び返(か<へ>【は】)し参らせて、京に置き奉りて、国一つなど参らせて、「御作善(おんさぜん)候べし」などにて歌うち詠ませ参らせてあらましかば、かう程の事あるまじ。
知足院殿をも申し受けて、法性寺殿の御沙汰には、宇治の常楽院に据ゑ申して、いま少し庄どもも参らせて、同じく遊びして管絃もてなしておはしまさましかば、かう程の事はあるまじき也。
法性寺殿は我が親なれば、流刑のなきこそ所望(そまう)の事と思はれたりけるにや。それも言はれたれど、我身にあらたなる祟りはなけれども、いかに物の計らひは、これ程の様(やう)を深く思ひ解かぬ所に、事は出で来るなり。
人間界には怨憎会苦(をんぞうえく)、必ず果たすところなり。ただ口にて一言我に勝りたる人を過分に放言しつれば、当座にむずと突き殺して命を失なはるるなり。怨霊と云ふは、詮(せん)はただ現世ながら深く意趣を結びて敵(かたき)に取りて、小家(こいへ)より天下にも及びて、その敵を掘り転(まろ)ばかさんとして、讒言空事を作り出だすにて、世の乱れ又人の損ずる事はただ同じ事なり。顕(あらは)にその報ひを果たさねば冥(みやう)になるばかりなり。