愚管抄_忠通、関白となる
愚管抄_忠通、関白となる
さて摂籙の臣をかゑんとをぼしめしけるに、大方その人なし。花山院左府家忠、京極殿の子にて、大納言の大将にて、さもやとをぼしめして顕隆にをほせあはせければ、「いなりまつりのさじきの事は」と申たりけりなどきこゆ。家忠の子忠宗中納言は、顕季卿が子の宰相がむこなり。かやうのゆかりにてそのとき顕季、家保などあつまりて、さじきにてさかもりして、さしかよはされたるなど人そしりけることなり。これは一定はしらねども、かくぞ申める。すこしもさやうならん人の、すべき事にてはこの摂政関白はなき也。
さて内大臣にて法性寺殿のをはしけるほかには、いさヽかも又さもといふ人なかりければ、ちからをよばで、「をやはをや、こはことこそは、げすもいふめれば、執政せよ」とをほせられければ、法性寺どのは
「この職をつぎ候ばかり候はヾ、忠通にゆるされて候て、一日父の勅勘を免ぜられ候て、門をひらかせ候て、代々の例この職は父のゆづりをゑ候てうけとり候夜、やがて拝賀などすることにて候を、たがへずし候はヾや。職に居候ばかりにて、父の勅勘ゑ申免ぜず候はんも、不孝の身になり候はヾ仏神の御とがめもや候べからん」と申されたりければ、
この申さるヽむねかゑすがゑす しかるべしと感思食とて、その定にすこしもたがへずをこないて、うけとられにけり。
法性寺どのは、白河院陣中に人の家をめしてをはしましけるうへ、かならず参内には先まいられけるに、世の中のこと先例をほせあはせられけるに、一度もとヾこをることなく、かヾみにむかうやうに申さたしてをはしければ、かばかりの人なしとをぽしめしてすぎけるほどに、鳥羽院は崇徳院の五にならせ給御とし御譲位ありけり。保安四年正月なり。白河院ひヽ子位につけて御らんじけり。大治四年正月九日摂政のむすめ入内。同十六日女御。これは皇嘉門院な(り)。さてその年の七月七日白河院は崩御。御年七十七までをはしましけるなり。天承元年二月九日立后ありけり。