愚管抄_忠実出仕の日のこと
愚管抄_忠実出仕の日のこと
さて鳥羽院の御世になりて、知足院どのはことにみやづかへてとりいらせ給ければ、鳥羽院御本意とげむとて、脱屣のヽちにぞむすめの賀陽院は、なをまいらせ給にける。長承二年六月廿九日上皇の宮にいり給て、同三年三月十九日にぞ立后ありける。白河院うせさせ給てのち五年なり。それも王子もゑうませ給はず。
さて待賢門院、久安元年八月廿六日にぞうせ給にける。白川院の天永三年三月十六日の御賀は御らんじけん。をさなくてさふらはせ給けんに、鳥羽院の仁平二年三月七日の御賀は、御らんぜでうせ給にけり。その御なごりに閑院の人々いゑををこしたり。この女院は永久五年十二月十三日に入内。十七日に女御、同六年正月廿六日にぞ立后ありける。
かヽりけるほどに知足院殿申されけるやうは、
「きみの御ゆかりに不慮の篭居し候にしかども、摂籙は子息にひきうつして候へばよろこびて候。いま一ど出仕をして元日の拝礼にまいり候はん。さてこの関白が上に候はん」と申て、
天承二年正月三日なんたヾ一度出仕せられたり。その日は二男宇治左府頼長のきみは、中将にてしたがさねのしりとりてなどぞ物がたりに人は申す。この日摂政太政大臣忠通、次右大臣にて花園左府有仁、三宮御子なり。次内大臣宗忠、家人なり。そのつぎヽヽの公卿さながら礼ふかく家礼なりしに、花園の大臣一人うそゑみて揖してたヽれたりし。いみじかりきとこそ申けれ。
すべて知足院どのは執ふかき人にや。この拝礼にまいりて年よりやまいあるよしにて、いまだ公卿列立とヽのほらぬさきに、「脚病ひさしくたちて無術候」とて、「かつかつ拝さふらはん」とて、いそぎ拝せられけり。をきあつかはれければ摂政大政大臣よりてたすけ申されければ、諸卿の拝いぜんにいでられけるに、内大臣いげ家礼の人をほくありけるをも、人にみゑんとにやと人いひけり。時にとりていみじかりければ、ふるまいをほせられけり。かやうの心にてその霊もをそろし。