愚管抄_御堂の栄華
御堂の栄華
さて冷泉院・花山院はあやにくに御命ばかりは長々としてをはしましけり。
三条院の位の御時、御年六十二にて、冷泉院はうせさせ給はんとしけるに、行幸なるべきにてありけるを、御堂は「先参りて見まいらせ候はん」とてまいられたりけるに、見しらせ給はぬほどにならせ給にければ、「いまはいふかひなく候。猶御物のけのゆくゑもをそろしく候」とて、行幸をば申とゞめられにけり。さりながら三条院弟の兄のあとをつがんやうに、天道の御はからひ、すこしもさふいなくて、
位五年の後をりさせ給ひにければ、後一条院はかはりて御践祚ありければ、九歳にてつがせ給へば、長和に宇治殿は、御堂の嫡子にて摂政になされ給にけり。この国母は又上東門院也。御堂の嫡女ぞかし。その後御堂は入道にて万寿四年まで立そいてをはしける。めでたさ申かぎりなし。
法成寺つくりたてヽ供養せられけるには、あまりに何もかも一つ御事にて、無興なるほどなれば、閑院の太政大臣公季の、九条殿の御子にて、年たかくしらがをひてのこられたりけるを請じいだし申て、御堂は御出家の身にて法服をたゞしくして、一座につかせ給へりけるに、太政大臣にて摂籙臣なる宇治殿のかみにつけられたりければ、相国の面目きはまりて、入道殿にはうしろをさしまかせてうるはしき着座、気色もなくて、宇治殿にむかひたる様にゐられたりけるをば、いみじき事かなとこそ時の人申けれ。