愚管抄_後白河法皇の死
愚管抄_後白河法皇の死
同三年三月十三日に法皇は崩御ある。あへの年より御やまいありて、すこしよろしくならせ給などきこへながら、大腹水痟と云御悩にて、御閉眼の前日まで、御足などはすくみながら、長日護摩御退転なくをこなはせをはしましけり。御いみの間の御仏事などはちかごろはきかず、あまりなるまでにぞきこへける。
大方この法皇は男にてをはしましヽ時も、袈裟たてまつりて護摩などさへをこなはせ給て、御出家の後はいよヽヽ御行にてのみありけり。法華経の部数など、数万部の内二百部などにもをよびけり。つねは舞・猿楽をこのみ、せさせつヽぞ御覧じける。御いもうとの上西門院も持経者にて、いますこしはやくよませ給ければ、つねは読あいまいらせんなど仰られけり。御悩の間行幸なりつヽ、世の事みな主上に申をかれてければ、太上天皇もをはしまさで、白川・鳥羽・此院と三代は、をり居の御門の御世にてありければ、めづらしく後院の庁務なくして、院の尊勝陀羅尼供養など云ことも、法勝寺にてをこなはれなどして、殿下、かま倉の将軍仰せ合つヽ、世の御政はありけり。