愚管抄_後白河法皇の怨霊
愚管抄_後白河法皇の怨霊
又ふかしぎの事どもたりき。後白河院うせさせ給て後に、建久七年のころ、兼中と云公時二位入道がうしろみにつかいけるをとこありき。それが妻に故院つきしませをはしまして、「我祝へ、社つくり、国よせよ」など云ことを云いだして、沙汰にのりて兼中妻夫、妻は安房、夫は隠岐へ流罪せられなどしたる事の出きたりし也。しばしは人信ぜざりけれど、よしやすの中納言出家する程に、一定死なんずるにてありけるころ、すまヽヽと云て生にけるに、あだに信じたりけるに、後のたび又さやうに云ければ、申やうにさたあるべしなど、浄土寺の二位申などしけるを、七日よびとりて置て、一定事がらのまことそらことをみんとて、入道よびとれと云事にて、七日をきたりけるに、むげに云事もなく、しるしだちたる事のなかりければ、正体なきことかなとて、やがて狂惑になりて流されにき。
又七八年をへて、建永元年のころをひ、仲国法師は、ことなる光遠法師が子にて、故院には朝夕に候しが、妻につかせ給て、又、「我れいわへ」と云事出きて、浄土寺の丹後の二位などつねにあひて、なくヽヽこれをもてなしなどして、院へ申て公卿僉議に及て、すでにいはヽれんとする事ありけり。万の人皆、「さ候べし」と申たりけるに、今の前右府公継の公ぞ、すこしいかヾなど申たると聞えしを、(さ)かしく慈円僧正院にことにたのみをぼしたりければにや、大相国頼実、卿の二位をとこのもとへ一通の文をかきてやりける。