愚管抄_後白河法皇の形勢判断
愚管抄_後白河法皇の形勢判断
贈左大臣範季の申しけるは、「すでに源氏は近江国にみちて六はらさはぎ候之時、院は今熊野にこもらせ給て候しに、近習にめしつけられて候しかば、ひまの候しに、「いかにもいかにも今は叶候まじ。東国武士は夫までも弓箭にたづさいて候へば、此平家かなひ候はじ。ちがはせをはします御沙汰や候べからん」と申て候しかば、ゑませをはしまして、「いまその期にこそは」と仰の候し」とかたりけり。もとより(の)御案なりけり。
この範季は後鳥羽院をやしないたてまいらせて、践祚の時もひとへにさたしまいらせし人也。さて加階は二位までしたりしかども、当今の母后のちヽなり。さて贈位もたまはれり。
範季がめい刑部卿の三位と云しは能円法師が妻也。能円は土御門院の母后承明門院の父なり。この僧の妻にて刑部卿三位はありし、その腹也。その上御めのとにて候しかども、能円は六はらの二位が子にしたる者にて、御めのとにもなしたりき。落し時あいぐして平氏の方にありしかば、其後は刑部卿の三位もひとへに範季をぢにかヽりてありしなり。それを通親内大臣又思て、子をいくらともなくむませて有き。故卿の二位は刑部卿三位が弟にて、ひしと君につきまいらせて、かヽる果報の人になりたるなり。