愚管抄_後三条天皇の時代
愚管抄_後三条天皇の時代
さて後三条は後冷泉の御をとヽなれど、御母は陽明門院なり。この女院は三条院の御むすめ、御母は御堂の二のむすめなりけれども、すこしのきなりけり。後冷泉のきさきに、宇治殿の御むすめ四条宮と申をまいらせられけるが、王子をついにうみまいらせられぬによりて、そのヽちも一の人のむすめきさきにはたちながら、王子をうませたまはで、久しくたゑたりけり。
さて後朱雀の御やまいをもくて、後冷泉に御譲位ありけることを、宇治殿まいりて申さたしてたヽせ給けるに、後三条の御事のなにともさたもなかりけるに、御堂をと子の中に能信の大納言といふ人ありけり。閑院の公成中納言のむすめを子にしてありけるを、後三条のきさきにはまいらせたる人なり。宇治殿たヽせ給けるあとにまいりて、「二宮御出家の御師の事なり。この次にをヽせをかるべくや候らん」と申たりければ、「こはいかに。二宮は東宮にたヽんずる人をば」と勅答ありけるをきヽて、「さてはけふその御さた候はで、いつかは候べき」と申たりければ、「まことに思わすれて、やまいをもくて」とをほせられて、宇治殿めし返して、譲位の宣命に皇太子のよしのせられにけり。能信をば閑院東宮大夫とぞ申す。この申やうこそふかしぎなれと人をもへり。白川院のつねに能信をば、「故東宮大夫殿をはせずは、我身はかヽる運もあらましや」とをほせられけるには、かならずかならず殿の文字をつけてをほせられけり。やむごとなき事也。